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  映像研究

ひょん

 
・ひょんなことから村上春樹という人の『ねじまき鳥クロニクル』という小説を読んだ。いつ以来だか読みなおした。ひょんなこと、というのは数日前のtwitterのタイムラインで「綿谷ノボル」という文字を見て、それ何だっけ?と思って検索してみて(それ何だっけ?と思ったことは大体検索してみる)それが『ねじまき鳥クロニクル』という小説の登場人物だったということを知った(思い出した)ならば、押し入れに押し入れられている文庫本コーナーに積んであったその小説を手に取ってパラパラしてみた。パラパラしてみたらつい読みはじめてしまったのだから、約1日半を費やして(主に電車の中と布団の中で)その小説を読んでみて、時には小説を読むことも良かった。自分の普段とは少し違った気持ちになる。


・そのようにしてふと「1980年代」が気になったりもしてみた。今の、この場所の、このムードとは違う時の、感じ。数日前に神保町の古書店の100円コーナー(コーナーというか段ボール)から拾い上げた1986年の『現代思想』という雑誌の特集は「<政治>の発見」とあって、それがどのような特集なのか。ゆっくりと読んでみようと思う。「政治」に<>がつけられた<政治>とはどういう政治なのだろう。あるいはそれは「発見」されるようなものだったということなのか。どうなのか。その政治や<政治>が、今の、この場所の、このムードと、どのように繋がっていて、どのように違っているのか。考えるかもしれない。


・梅雨を迎えて、その先には夏がある。夏になれば気温が上がり、気温が上がれば不快に思い、不快に思えば仕事の能率が下がり、仕事の能率が下がってしまうと困る。困るから大飯という場所にある原子力発電所が稼働するのか。仮説としての原因と結果のを積み重ねて、あるいはその積み重ねを幾筋も束ねて、何かの根拠のようなものを立ち上げようとしているのか。そしてそれを根拠と考えることができない。それを根拠として考えることができない場合、その根拠を構成している原因を、結果を、その積み重ねを、その束ねた何かを、あるいはその束ねかたを、語りかたを、考えかたを、感じかたを、どう考えて、どうやって、その「ありかた」に介入すれば良いのだろう。


・先週の日曜日に絶妙に興味が重なったり重ならなかったりする後輩2人と3人でご飯を食べたりお酒を飲んだり近況報告をしたりしながらも、そのところどころには「物を買うこと」についての話題があった。そして「(よく言われる事だけど、という注釈をつけた上で)選挙は数年に一度だけれども、物を買うことは、ほとんど毎日、誰もが、どこでも行なっていることで、なるべく物を買わないという姿勢とか、判断も含めて、それはやはり社会に対する意見の表明だと思うし、とても微力ではあるけれども、それはとても直接的に社会を動かしてもいると考えられる」という話をしたことを思い出した。物を買う、ということについても、更に考えるかもしれない。