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  映像研究

水曜日のメモ/秋、アカデミックな(たまには)

 
・秋。秋こそは読書の秋。しかし、読みたくてしょうがなくて買った本が堆く積まれている(これは大げさかもしれない。正確には「決して広くない部屋のあちらこちらにに点在している」)にもかかわらず、読むのは結局一度読んでる本のドッグイア部分だったりするのもどうにかならないものかと思う。


・そのようにしてたとえばドッグイアだらけの『西麻布ダンス教室―舞踊鑑賞の手引き桜井圭介押切伸一いとうせいこう、を読みかえしてみたりする。

 
ヨーロッパの哲学が構築してきた近代という「建築」は、全体が見渡せるように曖昧なものをどんどん排除してきたわけです。フォーサイスは、ジャック・デリダの「脱構築」という概念を寛容しつつ、そういう「還元」はよくないんだと主張します。(桜井圭介)
 

 
そもそもジャック・デリダの「脱構築」という概念は、モダニズムならモダニズムの枠(哲学だったらヘーゲルのヨーロッパ的な観念論)のなかにいながら、その枠組みを突き崩していかなくてはいけない、ということ。枠の外に出ちゃって、たとえば東洋思想やポストモダン的な遊戯空間に走るってことではなくて、論理的なものを突き詰めていった果てに、論理がおのずと破綻する地点を見いだそうとするわけです。(同じく桜井圭介)
 

 
デリダフォーサイスも「脱構築派」の建築の人も、一本の線がただ一本の線であるにしても、一本の線として存在することに我慢がならない。あるいは自分の表現が還元をうけて、何か大層なものに把握されてしまう(何か意味のあることだと認識されてしまう)ことが嫌だってこと。つまり、認識されることから一生懸命に逃れようとする。(同様に桜井圭介)
 

 
一つ一つの「パ」には一つ一つの方向性があります。ということは、運動の方向性を持った一つの線として「パ」を考えることができるわけです。ところがフォーサイズは、一つの運動線を持った「パ」に別の方向の運動の「パ」を「貫入」させるわけ。(略)つまり、複数の「パ」が一つの「パ」として意識されるわけ。しかもそれは時間的な差でズレていくわけだから、多種多様な方向線が立ちすくんでいるように見えるわけね。ブレた、歪んだ像になっちゃうわけです。(そして桜井圭介)
 

 
・たとえば写真を撮ろうかと思いながらいろいろなこと考えているような時に、まさに写真のついてのテキストを読むというのもなかなか大変なので、何か別のことから、その「いろいろなこと」を考えてみるというのはどうだろうかという発想になる。「あるものから別のものに意識が移るというのはどういうことなのか」とか「抽象的なものが具体的な物体として存在していることからどういう情報を引き出すことができるか」とか、もう問いの立てかたからして自分でもよくわからないし、全く向いていないようなことも含めて、考えてみる。考えるのにはお金がかからないのです。


・しかし、考えつつも、この本をパラパラしてて気になった参考文献くらいは買ってみる。
余白とその余白または幹のない接木 (1974年) (叢書エパーヴ〈2〉)豊崎光一(エパーヴ)
こういった本がさらっと(適正以下の価格で)あるあたり、さずが「ささま書店」です。いつもありがとうございます。助かります。しかし変なタイトルの本だなぁと思いながら、たまには105円じゃない本を買うのは良いけれど、今日もまた「読みたいのだけどいつにったら読めるのだという種類の本」が一冊増えてしまった、というはなし。