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  映像研究

哲学と大学、大学と大学以外


西山雄二編『哲学と大学』(未来社)刊行記念
哲学と大学  大学において私たちは何を希望することを許されているのか
西山雄二 × 熊野純彦
■2009年4月16日(木)18:30開演(18:00開場)


カント、ヘーゲルニーチェハイデガーデリダら思想史に名を残す哲学者たちは、各々がおかれた時代の要請に応え、数々の大学論を著わしています。彼らは学問の有用性と無用性、人文科学と自然科学、教師と学生、哲学と哲学研究といった関係を批判的に問い直し、大学の理念的基礎を模索しました。グローバル資本主義による市場原理の導入が進むなか、いま大学はかつてない危機に晒されています。大学存立の意味が問われる困難の時代に哲学研究・教育の最前線に立つ二人が、来たるべき大学、来たるべき人文知のすがたを探ります。


・昼から出かけて中央線沿線の古書店など冷やかしつつ、最終的に新宿に辿り着き、上記のトークイベント的なものに行ってみようと思った。しかし「哲学と大学」だなんて、ちょっとじゃなくてかなり大々的に恐れ多いハードコアなテーマだけれども、それでも個人的には、もうずっとどうしようもなく「大学」が、あるいは「大学の変化」が気になっていたのだった(こんなふうに)。そしてそれはきっとそこに社会や社会の変化がとてもわかりやすく反映されているからだと思う。しかしそのように考えて図書館で見つけて借りてみた『条件なき大学―附:西山雄二「ジャック・デリダと教育」』という本は多少パラパラしてみたものの、結局ややこしそうで読まずに返してしまったりもして、そんなときにこのような興味深い「イベント」があったものだから「これはぜひとも!」と思ったのでした(あわよくばデリダの本が読みやすくなるかもしれないし)。



・というような軽い気持ちで聞きに行ったのだけれども、率直に言って「とても面白かった」。今回話されていた内容の一番中心的な問い「人文学を学ぶこと/学び続けることの意義とは何か(より正確に言うならば「意義が証明できないとしても、何故/どのように学び続けるか)」というような事柄に関しては、それはもうまるで自分が考えていた/考えてみたかったことだったし、そういえば忘れていたけれども(忘れてはいないですけれども)自分としては、先月の後半は韓国はソウルに飛び「スユ+ノモ」という、ある種このような問いに答えを出している(しかしそれは確定した答えではなく、更新し続けることで答えを出し続ける運動のようなものだろう)事例のひとつを、ちょうど社会科見学してきたところなのでもあった。



・以下、トークの内容からノートしたものを備忘録(トークの内容そのものではありません/ない場合もあります)
「工学部的なもの(有用性)←→文学部的なもの(有用性が証明できないもの?)」
「大学の環境/空間の問題(象徴的に失われる自然・切られた木)」
「『哲学』と『大学』と『国家』/国家とは別の基準で『大学』がありえるか?/(国家がグローバル化しているならば…?)」
「『自由と孤独』の大学/研究から→『自由と責任説明』の大学/研究へ/(その研究どんな意味があるの?)」
「『労働』に対して『余暇』の意義/哲学は日曜日(?)〜このあたり面白かったけどノートできず〜」
「人文学は独特の『速度』を持っている/その『速度』の遅さによって『倫理的な訓練』が可能になる」
「『哲学者』を自称することの、『詩人』を自称することと同様の恥ずかしさ(必ずしも否定的な意味ではなかった、と思う)」
「学問=旅」
「競争させることのケアとしての「心」の問題(「心のノート」など。自己啓発的なものも?)」
「信じることを交換するような場所、あるいは『イベント』をつくること」



・「学ぶこと/学び続けること」を大学や、あるいは広義の教育機関に限定しないとするならば、それは一体どのような可能性があるのか。まったく個人的な最近のトピックスでは、10年近く「労働組合ユニット」的に(実際2人から作れるらしいし)一緒に働いていた同僚女子が、恐らくは「学ぶことを続けるために/学ぶ環境を守るために」職場を離れて新たな展開を作ろうとしていることとかも、非常に痛烈に考えさせられるひとつの出来事だったりした。例えば「銀行員を定年まで続けながら、給料で生活をして、そこから考えたことを詩というかたちで表現した」石垣りんのような人が(結果として)続けて来たことは「学ぶ」ということに、なるのか、ならないのか(なるんじゃないかな〜ニュアンス)。あるいはまた別の例として『暮しの手帖』みたいな雑誌の記事が、洗濯機みたいなものを数万回?とか動かして、壊れるとか壊れないとか、そこからそれは高いとか安いとか考える、そういったことは「学び」なのか「運動」なのか(学びって言ってもいいんじゃないかな〜ニュアンス)。まぁそれはあくまでも自分が今「大学」というところに所属しているわけではない、そういう立場から何かを考えようとしてみたときに思いつく事柄ということでしかないのだけれども。



・あるいはまた、別の個人的なこれまでの経験として「人文学の中のある特殊な一ジャンルである『芸術』」を学ぶ大学の中の「文学的なものと工学的なものの交差する地点に発生する『複製芸術』」を学ぶ学科に籍を置き、そこで様々なことを考えた(一応そのつもり)自分のような人間としては、そもそも「ファイン・アート(芸術)」と「デザイン(広告)」という線引きすら「任意のものです(自分で考えてください)」ということになっていて、まぁそれはそれでそこが面白かったりしたのだけれども、どうしても「芸術」を「(総合的な)人文知的なもの」に接続する回路が見つけづらいということがあって、その結果として何かを突き詰めようとすると「広告代理店を目指す」か「美術オタクになる」の二者択一しかないのは、何か根本的に変じゃないかな〜という違和感を持ち続けていたのは、そのどちらにも首を突っ込みつつ、そのどちらにも巧くハマれなかった人間の戯れ言なのでしょうか(そうでもないんじゃないかな〜ニュアンス)。それはつまり「運動」の根拠としての「批評性」のようなものが、どうやって/どこに発生するかというような問題だと考えたのでした。