&

  映像研究

誰にも「いいね!」と言われない/言わせない休日(半分嘘)

 
・日々の記録は例えば9月4日の日曜日。ドトール・コーヒーに通って読書をしている。かれこれ4日くらい通って読書をしているけれども、別に自分の最寄り駅前のドトール・コーヒーが、特別に読書に適したBGMが流れているとか、マガジンラックにファッション雑誌の最新号が並んでいるとか、特別にコーヒーが飲み放題だったりするわけではない。机と椅子のバランスのなのかもしれないな、家だとあぐらかごろ寝か微妙なソファだから集中できないのかもな、絶対そうだよな、というこれは完全に言い訳。しかし恐ろしいもので(もないけれども)「ここが読書をする場所だ」と思ったならば人はその場所で本をぐいぐい読む、ということがある。高校生の頃はそれは「西武線の下り電車」だったし、大学生の頃は「図書館」だった。任意の場所だ。


・それで高祖岩三郎という人の『新しいアナキズムの系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)』という本を再読している。再読とは言え「これ、ほんとに読めてたのか?」と思うくらい、全てが新鮮かつ新しいアナキズムの系譜についての学だと思えるのだから、ちらほらとしたドッグイアポストイットがあるにしても、それはほとんど初めての読書だ。そして自分の読書はそういえばそんなことばかりだ。アナキストであり地理学者でもあったという「エリゼ・ルクリュ」という人について書かれた部分が面白い。あるいはドゥルーズガタリの「脱領土化」という概念が引き合いに出されてる部分も興味深いし、突然とも思える「地球」という言葉/概念が、人の様々な活動「移動」「出会い」「交流」の可能性の根拠とされていることも(それほどまったく単純ではないなりに)面白い。


・そのような読書をしたのち、止まない雨に襲われながら帰宅。8月20日の集まりの写真を見ながら考えることもある。podcastで聞いていた『文化系トークラジオLife』のテーマは「祭りの時代」で、音楽フェスやデモの話題なども話されていて面白い。そしてまたどういう話の流れでだかで「震災直後twitterなど『ソーシャル・メディア』の肯定的な面が強調されたが、一方それからしばらく経って、この夏には否定的な面を思わせるような出来事があったりするのはどうなのか(意訳)」というような話題は、ちょうど自分も考えていたようなことにちょっとかすってくる部分もあったから、それを聞く。


・ところで、はじめて知ったときから一貫してわからないのは「ネットにおける『炎上』」と呼ばれる現象で、そのモチベーションは想像しても想像しきれないし、想像するだに何とも大変なものだと思うけれども、やっぱり微妙によくわからない。自分は極端に言えば、他の誰かのアクティヴィティに対するリアクションとして「面白いね」と「やってみたらいいんじゃない」かのどちらかしかないので(相づち)、そこにどのような形であれ否定的なニュアンスを差し挟むことが、そもそもわからないなぁ、と考えていて、しかしその、相づちによるコミュニケーションはつまり「いいね!」というボタンを押すことしかリアクションが許されていないソーシャルなメディアのコミュニケーションと、どこがどう違うのかと自分で自分に問うてみたならば、それは自分でもわからない。


・「いいね!」は良いかどうか。「いいね!」が一見良さそうなのに、「いいね!」は何故気持ち悪いのか(もちろん私見です)という、例えばこのような、ぼやっとした思いに、言葉によって形を与えることが、自分にとっての考える練習だ。


・自分が例えば、他の誰かのアクティヴィティに対して「面白いね」とか「やってみたらいいんじゃない」と言うことは何かと考えてみたならば、それは「続きを知りたい」ということだ。言い換えれば「続きをもっと聞かせて!」と言うことだし(言い換える必要はあまりなかった)、そしてそれは新しい「そして」を作ることだと思っている。だからそれは「良いか/悪いか」という判断をしているわけではない、というのはどうでしょう。そして、あるいは、その「良い」という判断を根拠にしてアクションをするのではなくて、むしろ「わからない(からやる)」ことを根拠にアクションをすることが、自分にとっての何かの行動の原理であって、もしかすると倫理でもあるかもしれない、といいなぁ、そうなんじゃないかなぁ、というのはどうでしょう。


・だからもしかすると「面白いね」と「やってみたらいいんじゃない」に、もうひとつ相づちを付け加えるとしたならば「なにそれ?」が個人的には嬉しい。自分だって「なにそれ?」と聞きたいし、逆に聞かれたい。「良いね」と言われることもたぶんきっと嬉しいけれども、むしろ「なにそれ?」と聞かれることが、そのことによって好奇心を交換し合うことが、新しい表現を生むのではないか、というのは論としてどうでしょう。