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  映像研究

そして、あっというまに5月は終わる

 
・ここ数日、事務所にはいるものの、ほぼ、ネット&読書&テレビ&more…(時々経理)なぼくです。
一週間に約二日、テレビを見続けることによってニュースを摂取し、また溜まっていた雑誌を乱読します。


・そんな仕事(?)ぶりに対して事務所メンバーからは「例えば岸野雄一の『スタディスト』的な意味で、なにか新しい肩書きを考えた方がいい」と指南されました。まぁ「指南」とかそんな大層なはなしでもないのだけど。「メディアレイピスト」の方とか「メディアアクティヴィスト」の方などを例に挙げるまでもなく、現代において、ユニークな肩書きはユニークな活動には欠かせないファクターであるわけで(「メディアなんとか」じゃないといけないのかな)、自分的にちょっと前は「プレス(笑)」を流行らせようかと考えたりもしたのだけど、この場合の「(笑)」のニュアンスなんて伝わるもんでもなく、そもそもそんなナイーヴな提案はあっさり却下され、あるいは横文字にこだわらないならば、そんなにニュアンスニュアンス言ってるんだったら、もう「ニュアンス研究家」っていうのはどうだろうという案も出た。もちろん却下です。それから以前、友達の名刺に「リサーチャー」って書いてあったときは、ちょっと良い、と思ったな。「リサーチャー=研究員」ってそれ考えてみれば当たり前なのだけれど。。


・あるいはまた「ラディカリスト」みたいな攻め入り方もあると一瞬ひらめいたのだけど、例えばそれは訳すと「原理主義者」になります。もうそれは絶対にだめだ。ユーモアが全くないし、何なら手当り次第にオルグしてきそうな人に思えてしまう。そしてそもそも自分は全然「ラディカル」ではないということに気がついたり気がつかなかったり。


・一部で話題が騒然の『セクシーボイスアンドロボ』の第8話は「恋愛と死」なんていう、とっても「ラディカル」なタイトルでありつつ、そして若干迷走気味であるようにも思えたりもしたけれど、ひとまず次回の後編に期待しています。暇が許す限り(そしてそれはここ数日全然許されている)ネットでこの回の評判など見てまわったところ、大半は「恋愛による精神的な(社会的な)成長」を見て取って、そしてそのことに対する肯定的な意見があったり、あるいは「このまま最終回?」みたいな意見があったりしたのだけれど、個人的には、木皿泉脚本のこれまでのドラマの内容から考えると、たぶんもうちょっと違った方向の展開があるのではないかなと考えたりします。
自ら「死」を選ばないということはもちろん、「恋愛」をもって何かを収束させたり、あるいはそのことを生きる上での必要条件にはしない、その上で「あえて」かたちのない「友愛」とか「(仮設的な)共同性」みたいなものに価値を置く、ということは、この脚本家(ユニット)が人と人とのコミュニケーションを描く上での、ほとんど「哲学」のようなものだと思っていたからだ。とはいえ、今回はどうなのだろう。


・ちなみに、日本以外の国で「連続ドラマ」という制度(?)がどこまできちんとあるのか(あるいはないのか)知りませんが、このような制度のおかげで私たちは、春夏秋冬だけでない、人にとっての「ひとつの季節」というものを何となく、ぼやっと感じることができる。その「季節」は突然始まって必ず終わるもので、つまり人と人との関係性は(それがハッピーエンドであるにしろ、そうでないにしろ)必ず変化してゆくものだということを、説明的でなく、数ヶ月の物語の流れを(四季の変化とともに)追うことで、自然に知ることができるのなら、それはある意味でなんて有益なメディアなのだろうかと思う。そんな5月末。