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  映像研究

リアリティと抵抗、あるいはリアリティへの抵抗

 
・もつ鍋・ホット梅酒・ホットポカリ・葛根湯・蜜柑・民間(ネット)療法の検索・etc…色々なものの力を借りて体調もかなり回復。行楽の・スポーツの・食欲の・読書の・芸術の・各種アクティヴィズムの・etc…秋だってまだまだこれからなのだと思うからバテている余裕なんてもう全然ない。


・このところ「森の生活風味@高尾」を過ごしつつ、ぼやっと色々なことを考えたり考えなかったり。株価が少し気になったりならなかったり。そんな中で読書といえば今まで来歴の不明な先入観?で完全に読まず嫌い(というほどでもないけれども)だった、中沢新一の『カイエ・ソバージュ』シリーズを読み進め、熊が王になったり、贈与から資本主義経済が生まれたり、神が発明されたりしつつももうすぐフィナーレ。そのような流れ(マイ・ブーム)でいつになく自分の中の「自然=スピリチュアル」な回路が全開な今日この頃。人との会話の中の全く関係ない話題の返答として「それは神話的に言うと…」などと口にする自分は、なにしろ影響されやすいのだった。しかしその中でも「贈与」についてはそういえばずっと考えているような気もしないでもない。人に贈り物を贈ることとは何か。それがある集団、ある社会の中でどのような働き方をするか、と。あるいはそれを、芸術/運動の中の「誤用≒ハッキング」のような切り口(これはまだ完全に個人的な段階だ)と関係づけながら考えてみたいとか思ったりもしている。とりあえず思っているだけですけれども。



・そんな日常を過ごす間にもYahoo!のトップページには様々なニュースが次々に更新される。例えば「総理大臣の家を見に行こうとした集団の数名が逮捕された」というのは、その事柄に関する各種レポートを少し調べてみただけでも、なかなか殺伐とした気持ちになるトピックスだ。このアクション(ということだと考える)が「デモの申請をせずにデモ的なことを行ったか/逮捕されるだけの必然性はあったのかどうか」に関して、自分はもちろん現場レベルでの正確なところはわからないけれども、その名称「リアリティ・ツアー」のようなことがその目的だとするならば、その発想(「リアリティ」/この場合は「現実感」というよりも「今、この国で、生活すること」というような意味に解釈できるように思う/をキーワードにして「経済」や「労働」の問題に新しい視点をつくろうとした/のではないかと個人的には思う)はとても批評性のあるアクションだと思うし、であるからこそその「批評性」が法律とは少し違った何かに触れる(あるいは法律の方が積極的に触れてくる/イメージとしての当たり屋のようなもの/どこかのブログにリンクされていたけれどもそれは森達也『A』の路上での逮捕の場面を思い起こさせる)という可能性はあるのかもしれないなぁと思う。


・しかし、数年前まで『電波少年』って毎週こんなことやってたのにな…(懐かし&呆れ&のどかさ&諦め…)。と思ったりして、そしてそういう時に「世の中はどんどん悪い方向に向かっている」と言うのはよく聞くし、とりあえず言ってみるだけならばそれは簡単なような気がするから(実際は簡単ってことでもないと思う)どちらかというと、何か別の表現方法を示せれば良いのだけれども、とりあえずあらゆるこのような出来事を「不思議だ」と思う発想を立ち上げられるだけの基礎体力(というしかない)は必要だと思う今日この頃。



・あるいはそれとはまた全然違った出来事としての「広島で行った某芸術家集団の作品制作に伴う一連の議論」は、法律には触れていないけれども、具体的にそのアクションがある人を(精神的に)傷つけている(と思われる)という意味で、あるいは「法律」ではなく「倫理性」を問われているのだという意味で、全く違った事柄なのだけれども、しかしある「アクション」(そのアクションは当事者にとっては「あるべきアクション」だと考えられている)が、それを報道/伝達する段階において、当事者(被害を受ける可能性のある人も含めて)以外の人にとっては、どうにも否定的なニュアンスを持って伝えられているような気がする、という意味においては、どこか似た印象も受ける。もちろん偶然近い時期にそれらの出来事を知ったから、ということもあるのだと思うのですけれども。そしてその主に否定的な議論(というか意見?感想?主にインターネットに見られる)に特に違和感を感じるということもないのだけれども(まぁ…当然そのようになるだろうな、という半ばあきらめに近い感覚で)、それでも、そこで、そんなムードに流されて「自由と呼ぶような何か」に特定の制限が加えられる可能性があるのならば、少なくとも答えは「決まりきったこと」ではないものとして、一般的にはいまいち不評なのかもしれないけれども例えば「芸術・文化の歴史」的なものを紐解きながら、慎重に考えることが必要だと思う。


・あるいはそれは「想像力」と「当事者(性)」というよく使われる、便利な言葉を巡る問題としても考えられるのかもしれない。「想像力」という言葉にどこか主体的なニュアンスがあるのに対して、「当事者(性)」とは、それを感じていない人に働きかけるようなニュアンス(ともすれば強要するような?)を持っているような気がしないでもない。もちろん時と場合において、その種の「当事者性」を持つこと/持たせることは必要であると思うのだけれども、あるいは「そうでない場合」というのもあるのではないかなという思いがありつつも、そしてその「当事者性」を持たせようとすることが、積極的な「あるべき想像力」を見えづらくしているようなこともあるのではないかなというのは、全くの思いつきだけれども、しかし本当に今考えていることです。