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  映像研究

しほん

 
・たしか一年くらい前、仕事まわりで「目標を立てるブーム」というものがあって、その中で「ただ『目標を立てる』だけじゃなくて、切りがいいところで『30歳までに1年でひとつずつ実行する事柄』を考えよう」ということになった。「英会話をマスター」とかのスキルアップ系、「コンペで入賞」などのリアル目標系が挙がる中で、ぼくが「30歳までにぜひともマルクスの『資本論』を読みたい」と言ったら、その場はやや微妙なかんじになった。自分としては「仕事をしてお金をもらって生活する」ということを、人は今までの歴史の中でどういうこととして考えてきたのか、ということを今だからこそ勉強しておきたいなぁという、とても素朴な気持ちがあって、そのひとつの教材としての『資本論』だったのだけど。


・そういう風にして最近、色々な本や、雑誌や、webや…なんやかやで「宮沢章夫」に出会う。
昔からエッセイを面白いなぁと思って読んでいたりとか、どんな流れか覚えていないものの『be found dead トーキョー/不在/ハムレット [DVD]』を元同僚にすすめられて見たことがあったりしたけれども、ちなみに舞台は全く見たことがない。そしてわりと最近その発言に注目するきっかけになったのが『『資本論』も読む』という本だったのであって、その後に『東京大学「80年代地下文化論」講義』を続けて読んでると、同じ時期にSTUDIO VOICEチェルフィッチュ岡田利規と対談していたりもしたので、最近自分が個人的に考えている事柄(これをさらっとまとめられないのは情けない限りだけども)を更に考え進める上で、参考になるのではないかな、と思った。また、自分のはてなアンテナの中でも更新度トップレベルのブログ(富士日記2)を読んでいると、ノイズ文化論(?)という面白そうな本を出す予定があったり、あるいはどこかで憲法について意見を求められていたりもするらしい。


・当然ながら『『資本論』も読む』は、資本論「も」、というところが重要なのだと思う。たぶん宮沢章夫という人は、どんな事象からでも思考を立ち上げられる方法論のようなものを持っていて(それはエッセイでは、テクニックとして全く思考に値しないような事象から「まるで思考みたいな」ものを立ち上げて、ユーモアとして表現される)、そのあらゆる色々なものの中に『資本論』「も」ある。そして「色々なもの(考え方)の中に『資本論』(という考え方)もある」というのはそれ自体、とても批評的な態度だと思う。それは、かつて人を熱狂させて、歴史を動かして、今も何かについて考えようとすれば、どこかで参照することになる、ひとつの書物(と考え方)を、ただ信じるのとも、忘れてしまうのとも、もちろん意図的に忘れようとすることとも違う。別の態度なのだと思った。


・「メッセージの内容」だけではなく、「メッセージの方法」についても考えること。あるいは「方法」がメッセージそのものを規定すること、という意味において、「方法」こそを考えること。それは別に誰もが考えなければいけないことじゃなくて、相手が大きいものであれ、小さいものであれ、見えるものであれ、そうでないものであれ、「抵抗する」ときに最低限必要とされることなのだと思う。最近色んなものを見ていると、色んなところで色んな人が、今までにはなかった方法で「市場」や「資本」について考えようとしている、ように思う。そこには少なからず「今考えないと手遅れになる」というニュアンスも感じるようで、その「手遅れ」がどういうことなのか、「手遅れ」になるとどうなってしまうのかはわからないけど、そのための新しい方法が必要とされていると思う。