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  映像研究

「日記を書くこと」と、「誤用」について

 
・25日の夜に卒業以来まったく会ってなかった高校の友達と再会して、実に「9年ぶり!」っていうフレーズを、自分で言いながら驚いてしまった。9年か〜。あるいはまた、最初のエントリーで書いた「地下鉄サリン事件から12年」ていうのもなかなかすごい感覚なんだけど、いずれにせよ最近、雑誌の90年代特集(あるいはニューレイヴが来てるよとかなんとか?)とかを見たり聞いたりして感じるのは、当たり前なんだけど、そういう時代(オウムTKエヴァの?)から思っている以上に長い時間が流れて、気づけば今は2000年代も後半戦だということ。


・そういう中ではっとあらためて考えたのは、この10年、あるいは90年代〜00年代における変化を「日記を書く」ということから理解することができないかということ。例えば10年前ぼくは10代で、その年頃特有の痛々しい日記を書いていたけど、それは紙とペンの、もちろんオフラインの日記だった。その頃周りの人がどれだけそういう日記を書いていたかはわからない(そんな気持ち悪い話しないから)けど、確実なのはその当時「日記を書く」と言えばそれはつまり「紙とペン」の「オフライン」のものを指しただろうと思う。そしてその日記を書くことの「オフライン/オンライン」の割合はこの10年で逆転した。(これもまた多分だけど)2000年くらいに「PCや携帯」で「オンライン」が「紙とペン」の「オフライン」の日記を追い抜いた。そして今、「日記を書く」と言えばそれはもう言うまでもなくmixiやらこういったブログを更新することを指している、それは間違いないんだろう、なと思う。


・それに関して素直に「変わったな〜」と思う。でもこのことはただ単に「オフライン」のものが「オンライン」になった、というだけではない。多分広い意味では「ipodが普及してから音楽の聴き方が変わった」みたいことと同じとも言えるんだけど、ぼくはここで「日記を書くこと」の変化は「表現すること」自体の変化を最も明確に示しているのではないか?という仮説を立ててみたいのです。例えばこの間ちょっとした話題になったmixiの日記の踏み逃げ問題なんかは、(自作自演説とかもあって、実際のところはよく知らないんだけど)そのオンライン上のウェットな関係について、もう全く意味が分からない、気持ち悪い、と思う一方で、でも自分もmixiの日記(今は書いてない)にレスがついてればそれなりに嬉しかったりするわけで、うーん…どちらにしてもこの騒動はすごく今っぽいなーと思ったりするわけです。


・ところで例えば90年代の幕開け?(とか言わせてもらいたい)懐かしの「フリッパーズ・ギター」は、痛々しい曲満載(良い意味で)の『カメラ・トーク』の中でもひときわ痛々しい歌詞に彩られた(良い意味ですよ)『午前3時のオプ』で「誰も聞かない声で叫ぶ」と歌っていた。今、この「誰も聞かない声」で「叫ぶ」ということを想像するのは難しいのだろうな、とそんなことを考える。


・「オフライン」の日記はそれ自体、誰かに読ませるためのものではない。(でも交換日記っていうのもあります。そういう意味では日記をコミュニケーション手段として使うということはあり得たわけですね。SNSっていうものはよく言われることかもしれないけど、今様の交換日記だと考えられるのだろうな。)しかし同時に、「オフライン」の日記を書く動機は、多分「ぼんやりとした」具体的ではない「他者」のようなものを想定してたりもする。そしてそういった「書く行為」の中では、その「他者」はいつでも「自分自身」になり替わる可能性があって、そのことによって、時に書かれる言葉は「他者に向かう」コミュニケーションツールとしての役割を否定される。そのようなかつての「オフライン」の日記の可能性?(「可能性」があるとして。あるいはこれは勝手な希望なのか?)に対して、現代の「オンライン」の日記の特性を考えてみると、(全てではないにしろ)この10年を経て「書く言葉」の表現の中には「誰も聞かない声」なんてものはなくなって(現実に「誰か」は「見ている」のだし)、「レスされるのが当たり前の言葉」が主流になっていったのだな、とそんなふうに、考えてしまう。


・ぼくはこのことに関しては、やっぱり微妙な違和感を感じる。感じ続けてきたからこそ今まで「オンライン」で日記を書く習慣はなかったわけだし、なんとなく居心地悪いなぁと思っていた。そしてそのこと(「書き言葉」が「コミュニケーションツール」でなくなるような状況)に関して少し考えを深めてみると、「文章を書く」ということに限らず「表現すること」全般に言える、「誤用の必要性」と言えるような気がする。「想像力」という言葉に、何か可能性を感じるならば、例えば「全ての創作行為はコミュニケーション・メディアの誤用である」という仮説を立てた上で、「今こそその「誤用」が必要とされているのではないか」という論をきちんと組み立てなければいけないのでは…?


・「日記を書くこと」について書くのは禁じ手にしようと思ってたのですが(そういうものは「メタブログ」というらしいですね)、1週間目にして、どうしてもこういうことになってしまいました。。