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  映像研究

撮影行為

飯田橋Rollで福持英助『GOD COUNTER』を鑑賞する。横位置で写された写真が20点ほど壁に展示されていただろうか。1枚ずつを見る。離れて複数枚を視野におさめる。それを何度か繰り返す。一瞥して写真家の目の前の光景を極めて率直に写していると思った写真は、実際には、対象との距離という点で、奥行きに関わる点で、かなり複雑なバリエーションを持っていた。オブジェクトを中心に写した写真、オブジェクトに焦点が合い背景はぼけている写真、何かの表面を写した写真、何かが遮蔽しており奥が見えない写真、奥が僅かに見える写真、遠近感を強調するように手前から奥へと伸びる何かが写された写真、ある単位を持った事物が連なる写真、と、見ていけば、風景と見做せる写真のすべての可能性が尽くされているようにも思われる。けれども、(おそらく)、それらは可能性を実現=表象することを目的とした撮影行為の結果として生まれたイメージではない。では何のために?そう問うてみて、また見る、眺める。

 

・写真家の言葉はその「では何のために?」を考える上で、一つの道筋を示す。こたえが欲しいわけではないけれども。手にした写真集の綴られた写真の終わりには、それほど長くないテキストがあり、制作の核心が端的に記されている。そのテキスト中の「目の前の景色に内面の調和の可能性を願う」「ある種の祈り」という箇所に立ち止まるようにして、また考える。この世界には、祈るようにして写真を撮る人がいる、ということ。「祈るようにして」では適わない。祈りとしての写真、祈りとしての撮影、か。眼差しは祈りと結びつき、イメージに結晶する。そう信じる。そのような人が現にこの世界に存在していて、その人が写したイメージを私は見ることができる。スクリーンの画像ではなく、触れることができる事物として、この自分の前に写真が在ること。この事実を救いと思う人がいる。たとえば自分。

 

・師である清野賀子から譲り受けたというカメラが作品とともに展示されていて、そのカメラの姿を見ることで、福持の、清野の、撮影行為が少しだけ想像できるように思えたことは、自分にとっては上述の意味での救いであるのみならず、研究活動の手掛かりともなる。去年の夏に頓挫した論文の、立ち止まり進めなくなった地点の、その先が見えるかもしれない。写真を言葉にすることを積み重ねていけば、人がカメラを手にして世界に向かう、その撮影行為を立ち上げることができるだろうか。だが何のために?

 

・夕方から夜にかけて業務。いつでも、つねに、新しい時間に踏み込みつつあることを、何度でも思い出して、驚きながら、楽しみたい。必要に応じてハードルを上げるイメージ。明日からは最大4日間、家でひとりで作業することができる。準備。

 

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