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  映像研究

相談

・後から書いておく記録。準備の大切さを心から実感した翌日は相談について実感する。午前に家で作業して午後からお世話になっている先生に授業の相談をする。自分が考えてみたことを伝え、返事の言葉を受け取れば、また考えを続けることができる。有り難い。そのように思えば、相談の意味も少しずつ分かってきたように思う。相談しまくるでもなく、相談しないでもなく、適切に相談することが、動かす。状況を前に動かす、ではなく、自らの動きを助けることになる、といえるだろうか。立ち止まって吟味するために相談する。これも普通のこと。普通のことに気がつき続けている。いったい今まではどうして過ごしていたのだろうかといつも反省している。

 

・久しぶりに大学へ行き、一冊の論文集を手にして、そのなかの論文ではない一つの文章から、はたらくことについて考えさせられた。「私というリソース」という言葉を読みはっとする。人は資源。かつてならばその言葉に抵抗を感じていたかもしれない。人は材のようなものではない、と即座に思ったかもしれない。けれども、いま別のことを確かに考えている。企業とも経済ともあるいは社会ともはなれても、人は力であり得る。ここから何かを考えられる。

 

・その文章の後半には、「これからの人生は私というリソースを最も切実に必要としている人たちのために用いてもらいたい、という考えが次第に心を占めるようになった」と書かれていた。かつて講義で出会った、自分よりもふた周りは上ではないくらいの方が、そのような言葉を書いていることから考える。そのような姿勢でいるためにこそ、学ぶこともあり、磨くべきものもある。健康でいつづける必要もある。そして「必要としている人たち」を見極めたい。

 

・実家から朝連絡をもらって、明日の予定をふたつキャンセルする。ひとつは会議で、自分がその場にいなくても良いように、文章を書いて代読をお願いする。もうひとつの勉強会は、お願いして、集まり自体を延期してもらった。お願いする。小さな助けが必要なときに、さっとお願いすることも大切。これも普通のこと。普通のことを丁寧に積み重ねれば、大きな失敗はない。これは信念。これは祈り。普通だった。