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  映像研究

冬、山、仕事

・202012011655。部屋から。ストーブをつけたり消したりしながら。約一週間ぶりの休日を作り家で作業をする。今日から論文を書き始めた。ことにする。このあまりにも断片的なメモのような言葉はいつか論文と言える形を持つのだろうか。しかし読むこととともにメモすることを、そして何より書き始めることをなくては、書き上げることはできない。そう考えて、この日から基本的に毎日少しずつ書くことにした。時は2020年12月1日。始まりとして相応しい。火曜日だ。その書くことの間に。

 

・昨日は業務の会議。二年間一緒に仕事をしているチームの方たちへ来年度の自分の担当についての相談。心苦しいとだけ思っていることを漏らすと数日前に同僚がぱーんと肩を叩くような(実際には叩かない)言葉をくれた。「何も申し訳ないことなんてないですよ」と。「論文を書くために一年間仕事の分担をお願いします」と言うことを苦しく思うのは自分の研究に対して確信がないからだろうか。あるいは単に性格に依るのか。そして別の部署だがチームを組んでいる方からは「でも大事なことなんでしょう」という言葉をいただき、何も言えなくなってしまった。

 

・夜中に珍しく持ち帰った添削業務をしつつビールを飲み、ふと一息ついて、そのような人たちの顔を一人ずつ思い浮かべる。あるいは先日の面談(自分が学生の方)で「仕事」「働くこと」について話し、聞いたことも影響しているだろうか。日常ではほとんど自動的に動いている「働くこと」に対して、別の動きをしようとするならば、まずはその動きが自覚される。この業務の中で自分はいったい何をしているのだろうか、何をしてきたのだろうか、と考えることが最近多い。言葉を話し、文章を読み、絵を見て、言葉を話す。あるいは文章を書く。そして何より声を聞く。顔を見る。そのバリエーション。気づけば自分のことについて考えていた。

 

・大学の頃に同級生に「でもその仕事ってここにいる誰にでもできる仕事だよね」と言われたことを20年近く経っても決して忘れることができない。自分は本当は怒っているのだろうか? 今も。

 

・「誰にでもできる仕事」を「誰にもできない仕事」につくりかえるということをしてきた。というかきっとどのような「誰にでもできる仕事」でも20年続けていれば結果的に「誰にもできない仕事」になってしまうのだろう。それを避けることはできないのだろう。能力とか適正とかそういうことは一切関係ないのだろう。それはイメージとしては「カラオケ」に似ているかもしれない。楽しいなと思って歌っている。人の書いた言葉でも歌うことによって分かるのは書いた人ではなく歌っている自分のことでもあり、誰でもない「人」について考えることもある。それはイメージとしては「写経」に似ているかもしれない。目で見た=読んだ文字を、自分の手で書き写す。書き写すことによって自分が消えながらも自分を感じる瞬間が確かにあるように思う。写経はしたことがない。

 

・一般的な業務のカテゴリとして「教育産業」ということになるのかと時々思い出して何度でも驚く。人から言われて何か違うような気がしたまま時間が過ぎた。先日の面談(自分が学生の方)でも「教えることが好きなんですね」と言われて、全然答えられない種類の質問だった。「教えてるっていう意識ないんですよ」と即座に答えれば良かったのだろうか。それはそれで「リベラル(風)の教育関係者」の定型的・優等生的な文言に思える。教えるとは?

 

・「教える」は自分にとっては謎の言葉として放置しつつ(知らない人に道を教えたり、知人からメアドを教えてもらったりする、そういう言葉だということにして)、この数年「育てる」という言葉?概念?については、わからないふりをするのはやめようと、自分なりにその言葉を受け入れて自分の行為に照らし合わせようと考えるようになった。認識の転換。意識的な思考の方向づけ。それはイメージとしては「自然農」のようなことに似ていると良いなと思う。水をかけたり、草をむしったり、耕したり、一見単純そうに見えて(誰にでもできそうと思う)、実際には、まったく単純なのではなくて、複雑に動き続ける現実が圧倒的にあって、それに応えるように行為しつづけているのだろう。そしてそうした行為を繰り返すことで知覚が深まっていくのだろう。植物を、土を、育てるとは言うが、土に教えているとは言わない。しかしいずれにせよ、学んでいるのはいつも自分だ。

 

・こういう話を変な冗談とか混ぜながら語り合うのはいつでも山に登る友人たちだった。この言葉もいつか別の言葉として話すかもしれない。冷たい空気の山を思い出しながら。