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  映像研究

・後から書いておく記録と考え。日付と時間を記録して帰宅する京王線で書いてみたが、しかし、一旦消して、忘れてしまった。それで翌日に書き直してみる。

 

・8日の日曜日は久しぶりの業務。学生と呼ばれる人たちがおのおのの興味関心を発表する一日。自分は基本的に聴く。定型文のように書くと実感が弱いように思うが、それを差し引いても「学びが多い(こちらが学んでいる)」と形容するほかない。業務終了後は広報に関わる会議。終わると授業のチームのメンバーが飲食していると連絡あり。後半少し立ち寄る。季節の変化を感じる宵の時間。いつでも人は数年前に思い描いた(しかしまったく別の)現在にいる、ということを思う。

 

・こうして夢のような黄金週間が幕を閉じた。業務から解放されて純粋に自分の書く作業を中心に約一週間を過ごせたことを関係する方々に感謝。世から離れて休むこともした。世に戻って。

 

・作業の合間や移動中の電車では読書していることもあるが、特に最近はスマートフォンでブログあるいは日記を読んでいることも多い。一般的なSNSの近況報告とも少し異なる(と思われる)日記と形容することが一番適当に思われる文章を読むことの面白さを最近また強く感じている。生活するなかでの小さな判断やその判断の根拠として何に価値を置いているかということが書かれている。自分は「断片」「細部」などと呪文のように唱えていながら、そうした具体的な事象に焦点を合わせて、言葉で掬い取り、文章によって描き出すことが得意ではないから(事象ではなく思考が浮かぶ)、そうした、映像的とも言える文章に触れると、いつでも強く惹かれる。

 

・あるいはそのような自分の「質」が無意識でもあろうが影響しているからこそ、視覚的なもの、具体的には写真のような技術に引き寄せられるのかも知れなかった。今日の業務の最中に思わず「これは批判ではなくて、いま「関係性がうつる」という表現を普通に使ったけれども、それは実は凄いことを言っているのかもしれないですよね、だって「関係性」って目には見えないわけだから、目に見えないものが「うつる」ってどういうことなのか、ということを考えました」と発してしまって、結果的に「ちなみに僕も「関係性うつる派」です」と自分の信仰の告白のようなコメントをしてしまった。

 

・「表情」、「撮影者と被写体の距離」、「細部から想像される状況」、とさまざまにその所在をめぐって語ることはできる、がその言葉のいずれも「関係性」には届かない。あるいは「関係性」はあくまでも仮の言葉だけれども、その「何か」にもやはり届かないとすれば、いったい何の話をしていることになるのか。やはり写真の問題は、定着したイメージの、読み取り可能な情報の問題なのではなく、どちらかといえば「目の前に存在している人をたとえば「友人」と呼んでいて、その友人のことを「知っている」と思っているし、実際にその人が何を感じて何を考えているかを理解していると思って生活している(思わないと色々難しい)が、実際にはもちろん理解しておらず、まして「これを考えている」と掴むことはできない」という事実と似ている。

 

・しかし一方で日記に書かれた、ささやかな(と形容したくなる)文章には、もう少し別の方法で生が写されている。写真にはできない方法で。