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  映像研究

20120622のその前

 
・2012年の6月22日(金)のこと。夕方から都内に向かって19時前くらいに霞ヶ関駅で降りる、その前は大学にいた。大学で授業を受けた後に、担当してもらう予定の教授(指導教官というらしい)と小一時間話をしていた。1月に研究計画書というものを提出して、2月に面接試験を受けて、4月に入学して、そしてばたばたと2ヶ月半が過ぎて、6月も後半になった。この期間に考えていた事柄、この期間に考えてたような事柄、この期間に考えているはずだった事柄、この期間に考えているはずだったけれども全然考えていなかった事柄、などについても話したり話さなかったりした備忘録。修士論文というものを書くことになることだけが決まっていて、だけれどもまともな文章を書いたことがないために(どういう文章が「まともな」「論文」であるのかもこの段階ではわかっていない)これから猛烈なペースで色々な本を読んだり、メモしたり、別の本に書いてあることと関連づけて考えたり、しなくてはいけない。それは自分にとって楽しいことだと思う。それは自分にとって必要なことだと思う。それは「いまの、この場所の、このムードの、この流れの、状態だか、風景だか、構造だか」を書き記しておきたいと思ったから、そうするのだと思う。


・以下、ノート未満のメモ。「ポスト・フォーディズム時代の芸術」あるいは「ポスト・フォーディズム的な環境を、ある極端に示しているような行為としての芸術」について考えるだろう。そしてその「行為」は身体表現的なパフォーマンスというよりもむしろ、普通な意味でのコミュニケーションに近いような「言語行為」「会話」「発話」に集約されるのではないか。「話すこと」それ自体が「表現」でありうるということは、同じように「話すこと」それ自体が社会を駆動するための、資源に、つまり「資本」であるということで、それがいわゆる(昔ちらっと調べて全然意味わかんなかった)「認知資本主義」ということと関わってくるのか。どうなのか。「話すこと」が「現れること」で、現れなければ、存在することが出来ないような社会において、その中で、あるいはその傍らで、どういう言葉を発するのか。あるいはどういう言葉を発しないのか。というようなことを考えていたならば都合良く
クリスティアン・マラッツィという人の『資本と言語―ニューエコノミーのサイクルと危機』というタイトルの本や『現代経済の大転換―コミュニケーションが仕事になるとき』というタイトルの本を見つけたから、そういうものも読んでみようと思う。