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  映像研究

不思議な眠気の中にいるかもしれない。

 
・眠いときに書かれたような言葉を読むことが好きだ。眠いときに書かれたような言葉がつくる文章には、あるリズムや、ある間合いや、ある言葉を選ぶ感覚のようなものがあるような気がして、そのような言葉を読むことが、自分にとってはかなり最高の娯楽であるということに気がついた。


・というこの文章もまた、眠いときに書いている。眠いときに、眠いけれども、いくつか言葉を並べてみて、繋げてみて、並べたり繋げてみた言葉から、何かが起こるのを待ってみる。何かが起こることもあるし、何も(たいしたことは)起こらないこともある。そして「何かが起こる」といったところで、その「何か」は、自分にとって意味があると思えるような感じを得る、ということと近い意味であるのだから、本当に「何かが起こっている」かどうかはとても疑わしくもある。しかし、それでも、何かが起こる(こともある)。


・楽器を弾くことが生活の中に習慣としてある人が、曲を演奏するでもなく、何ともなしに楽器に触れてみるような感覚で、言葉を並べてみる。自分のからだの、かたちとか、器官とかでない、むしろかたちをつくり、器官を動かす、ある「感じ」のようなものを、力のようなものを、自分自身が知るために、その「感じ」を感覚できるような何かとして表すために、人は楽器を弾いたりするのかもしれない。あるいは独り言を言うかもしれない。またはお風呂で歌い出すかもしれない。そして言葉を並べてみるかもしれない。


・眠気の中で言葉を並べてみて、しかしその言葉が、単に眠気に対してしっくりくるだけでなく、自分のからだの「感じ」に近しい感覚を得ることができたならば、言葉が次々に浮かび上がってきて、波に乗ることもある。波に乗っているときには、ただ波を乗りこなすことに精一杯で、気がつくと波は落ちついている。そうしてまた、ひとつ、言葉を並べてみることから、波に乗るイメージを探ろうとするのかもしれない。


・言葉を記したり、言葉を読んだりしなくてはいけない、と思ってしまった。自分はあまり何かを「しなくてはいけない」と思うことがないのだけれども(あまりというかまったくないのだけれども)ふと「ああ、もっと言葉を記したり読んだりしなくてはいけないな」と思った、というこれが備忘録でもある。言葉についてもっと知るために、言葉にもっと触れなくてはいけない。ずっと同じその時でありつつも、今がその時であるのだと思う。


・生きていると色々な新しい言葉を知る。「ポスト・フォーディズム」とか「バイオ・ポリティクス」とかを、普通に(普通ってなんだ)自分の考えた事柄のなかに使っていることも面白い。面白いけれども気をつけようとも思う。今日は「オーバーシェアリング」という言葉を知った。その、共有しすぎ、という感覚が意識されたならば(それはもうきっとされる/されてるだろう)、ではそこで、どういう新しいプライベートなゾーンの意識とか、コミュニケーションにおける倫理とかが生まれるのだろうかと考える。


・たぶん10年くらい前に、ある批評家の人が、ある雑誌の連載で、あるミュージシャンの人に対するテキストとして書いていた言葉を思い出す。「どのような真剣な戦いも、時代に制約される。」その言葉はとても重く、なおかつその戦いが「文化的」と捉えられるような(非常に曖昧な/とても広範囲な/しかし確かな)戦いであるのならば、その戦いは、時代のムードとか、ある種のファッションのようなことにさえ、制約(という表現が強すぎるのならば影響?)されるのだと思ったりした。


・その言葉が気になって、気になったのだから押し入れに押し入れられていたその雑誌を引っ張り出してみて、その連載から、その批評家の人が書いた言葉を、もう一度読んでみた。「ただ、ひとつ言えることは、何事かに対してのギリギリの真剣さと呼べるようなものも、おそらくは時代(という言葉は嫌いなのだけど)に、制約されていて、必ずしも同じ闘い方が常に通用するわけではない、ということだ。」と書いてある。括弧の使い方とかを含めて、当時この一文を読んだときに感じた、不思議な気持ちを思い出しながら、また別の不思議な気持ちとして感じる。


・そのフレーズを、自分の考えの中に投げ出してみて、「同じ闘い方」とは何だろう?と考えたりもする。「同じ闘い」は続いているかもしれない。同じ闘いに望むために、装備や道具を少しずつ変える。そしてまた装備や道具がしっくりくるようになった新しい自分は、別の闘い方をしている、ということなのか。どうなのか。装備としての感覚と、道具としての言葉。自分の使う言葉を点検する。