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  映像研究

忘れる

・2月22日。朝には半分眠りながら妻に今日は父の命日と言っていたようだから、辛うじて覚えていた。「2月22日の2時22分」という覚えやすい数字を、しかし実際にその時間になると毎年忘れる。心を鎮めて黙祷でも、と思う気持ちがないわけではないが、そのような時間がもてたことがない。ちょうどお昼ご飯を食べて少しの眠気から戻り何かに夢中でいる時間。今日は夢中で電話をしていた。職場の電話の受話器から聴こえる声に集中していたら「2月22日の2時22分」は消えていた。10年前も同じ空間で電話をしていたのではなかったか。電話でその知らせを受けたのだから。そしてそのあとはばたばたと行事が続いたのだと思う。10年。

 

・10年後の今日。午前は八王子へ。散髪。ランプコーヒーで豆を買う。お昼に大安でラーメンを食べる。したいことを詰め込めば慌てて職場へ。

 

・そうした生活の諸々を忘れながら時間が過ぎる、ことを知っている。映像は時間をあるいは光景を記録するというけれども、本当には何を記録して保存しているのか。一枚の写真は、かつてそのような瞬間が確かにあったことを教える。10年のあいだに気づけば集合写真ばかりを撮影している。それはどのような欲望に根ざしているのかと考えたことが無かった。年度末らしく人たちと集まる機会があるならば、そのたびに写すだろうか。中断して。