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  映像研究

メモ(見ることと読むこと)

・後から書いておく記録と考えていることのメモ。書かなければ消える。消えることそれ自体は悪くない。消えることは多い。ほとんどが消える。

 

・感じたばかりの「季節の変わり目」はすぐに通り過ぎるよう。夜家に帰る道を自転車で走れば寒い。寒さと再会する。思っていたより早く唐突に。リビングの扇風機を片づけてストーブを出しておく。いつ点火するだろうか。

 

・何かを見ることと文字を読むことは、同じように主に目と脳による行為だけれども、全然違うことをしている、と考えたのは、自分が撮影した写真に映る風景のなかに看板の文字を見たときに、意識して「これは文字だ」と思ったからで、そのことを気にするようになってから、生活している中で思わず「視界に文字がある/ない」と考えている数日。電車などには多く広告があり、それはイメージと文字の総合で何かを強く訴える。そのことを思い出しながら、全然別の見ることを考えてもいる。どう関係するか。

 

・最近手にした小林美香さんによる『ジェンダー目線の広告観察』という本は、見ることについての、普段の自分の関心とは異なった、しかしこの都市生活において重要と思える視座を与えてくれた。私たちはどのようなイメージと言葉に取り囲まれて暮らしているのかという問いがあり得る。それが私たちの考えをどのように意識せず規定しているかという問いも立つ。同時にそうした広告と一体化した事物や場所は「風景」と呼ぶものの一部でもある。「環境」と言うべきか。目を開けてさえいれば、言語による理解よりも素早く、イメージのありようが見る者の欲望や情動に作用する。構造を理解しようともその作用が消えるわけではない。

 

・タイムラインに「イメージの影響学」という言葉が流れてきて、行くことは叶わなかった小沢健二による講義のことを想像してもいた。現在、何について考えることが、どのような行動の変化と関わり、そしていかなる社会のありようを構想することになるのか。風景となり、環境でもある、映像について考えることは、この星の現在について考える一つの道筋になり得ようが、しかし自分の思考と言葉では何か決定的に届かないとも思う。これは自分にとっての研究を含む実践の動機の問題。誓いは消えかけてないか?と自分に問うてみて。

 

・読むことではない見ることが、人をどこへ導くのか。この生活の有用性とは別の生のありようを垣間見せるのか。写真を含むイメージはその例であり、そのように生きた記録でもある。同時に言葉は問いを投げる。または概念をつくる。織物のように思考を練り上げるためにも言葉がある。そのように考えながら中断する。