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  映像研究

野菜、写真、風景(ますます夏が終わる)

・201908291040。夏の終わりの最後の盛り上がり。気温は上がるけれども空気は少しクリアになってくる。夜になると少し涼しい。夏の終わりの感じを反芻する。かつての夏の終わりも折り重なる。あと数日は休みでもあり業務の準備でもあるようなグレーな時間がある。何度もそうしてきたように次の季節の準備をする。

 

・友人から野菜セットが届いた。念力を送っていたかのように、モロヘイヤ、つるむらさき、オクラ、などの夏野菜が送られてくる幸福。夏の最中にこちらから送った写真について短い手紙が同封されていて、自分が送った写真を友人たちが見たことがわかる。5月の真ん中のある日にある場所で撮影された写真がこうして撮影された場所へ届くこと。撮影された写真が撮影された場所に還っていくこと。ここまでが撮影行為のひとつのサイクルなのかもしれなかった。家族写真でもあり家族写真ではない集合写真について。写真に写っている人にはそれぞれその写真には写っていない家族と呼ぶ人がいるということ。あるいは家族など存在しないかもしれないということ。人が集合した写真にはまだ読むべき何かが眠っているように思う。

 

・では風景を写すこととは何か。この夏にずっと頭の片隅にあり、業務を口実に少しだけ掘り下げてみて、しかし実践することは叶わなかった「風景を写す行為とは何か」という問い。あるいは「いまなお風景を写すことにはどういう意味があるのか」と現在の自分と周囲の関係に絞り込んで考えてみる。「風景」は「環境」とは違うから、永遠に在り続けるのではなく、ひとつのモチーフでありコンセプトに過ぎないのだろうか。しかし自分はいつでも風景こそが重要だと思っていた。たとえば2017年に写真美術館であった「アジェのインスピレーション」の副題は「ひきつがれる精神」で、いったいなにが引き継がれるのだろうか。そしてそのコンセプトの最も現在に近い作家は清野賀子だった。だからこう考えてみてもよいのだろうか。21世紀に、デジタルイメージ=写真の環境において、アジェのインスピレーションと呼ばれるものは引き継がれるのだろうかと。あるいは引き継げるのか、引き継ぐべきなのかと問いをずらして考えてみることもできる。早急にすぎるだろうか。

 

・何かを写真で見たいと思うこと。写真に写ったそれを見たいということ。それは「残したい」というような考え(あえて言えば情緒)とは異なる。「ちゃんと見たい」ということの「ちゃんと」について、いつも、どこにでも考えている人がいる。別にイメージを作る人に限られたことではないし、イメージを創造することを生業としている人のすべてが「ちゃんと見たい」ことをその実践の動機にしているわけでもないだろう。野菜を作っている友人はきっと野菜を「ちゃんと見たい」と思っているのではないか。つくるものを見るということ。あるいは手によってつくることは、見ることの結果、結晶でもある。昨日の夜偶然にデスクに置かれていた、小銭入れ、ポーチ(アウトドア用)、キーホルダー、はどれも友人たちの手によって作られている。時々それを見て「つくられてるなー」と思う。

 

・イメージを創造するならば、フレームのコントロールは重要だが、しかし本当はそれほど重要でもないのだろう。重要なことはやはり現実の物をよく見ようとすることにある。「見ようとする」という言葉でしか指し示せない何かがある。「見る」とは異なる。現実の存在を見ようとする、と言った時に、既に「見ること」は「見えるもの」を超えている。定着されたイメージはさほど巨大でなくても良いのかもしれない。出かけるために中断。

 

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