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  映像研究

見ていない

・夏のあいだに撮影した3本のブローニーフィルムのベタ焼きと、2020年に撮影した写真のキャビネサイズのプリントが仕上がったのは昨日。写真の像を見ながら多くの反省がある。自分は、自分が思っているよりも、見ていない。見ることをしていない。見ることができていない。それは撮影の際に、写すものを見ていないということでもあるし、状況を判断できていないということでもある。ベタ焼きに現れた一枚につき8つの像は、その事実を映し出しているように思われた。しかし何よりも驚いたのは、ベタ焼きで既に見ていると思っていた写真に、全く意識してしなかったものが映り込んでいることに、引き伸ばしてみてはじめて気づいたことの方であった。自分にとっては、静けさを感じつつ、写し取ったと思った写真は、実際には多くの雑多な事物が映り込んでいる。それ自体は、良いも悪いもなく、しかし自分の抱いていた印象との違いに驚く。そして、自分はおそらく自分が考えているよりも、見たいものを、見たいように、見ている、ということを考えた。映像を意識的に撮影しようとした際の、ごく初歩的な問題にまったく予期せずつまずき、驚きつつ、自分の「見ること」が変わるかもしれない。

 

・この数日考えていたことは、「事物を見る」と同じような意味で、「事物」に代入するようにして、「風景を見る」とは、言えないのではないかということだった。「風景画」も「風景写真」も確かに存在するが、「風景を見る」という行為はあり得るのかと考えている。ある場所に立ち真っ直ぐ前を見渡せば、何か見える。山頂に立てば空と地が、海岸に立てば空と海が見えるかもしれない。塔に立てば町のありようも見えるだろうか。しかしその経験を「風景を見る」と言う必要はない。仮にその状態に置かれた身体に関して、「外界を拡がりとして受け取っている」と言ってみるならば、それは「見ること」なのだろうか。おそらく目は自然に何かに焦点を合わせるだろうが、必ずしも注視を伴わない。そう考えたときに、「風景」とは自明のものではなく、そして「風景画」も「風景写真」も、人間の経験に対して、特異なイメージであるように思えた。

 

・「外界を拡がりとして受け取っている」と言ってみて、自分にとってその状態=経験は重要かつ不可欠であることに気がついた。それを、人間にとって、と言ってしまうことには躊躇いがあるが、しかし素朴に言えば「遠くを眺める」ような経験によって、人は自分がこの世界に存在していることを実感するのではないか。その実感があるのだとして、そしてその実感こそを定着することはできないだろうかと、ある場所に立った写真家が、もしもそのように考えたならば、その人は自身の手にしたカメラをどのような場所にどのように構えるのか。何かを訴えることや、何かを物語るためでなく、また分類という方法に手を貸すこともなく、単なる像として定着させること。人間が感じる「拡がり」を像として定着させることは、その像を見る者に、存在の問いを手渡すことになるだろうか。