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  映像研究

映画を見る人生、眼鏡、戦争

・202001160838。業務が「朝二」からなので家で朝食を。毎年年始の楽しみだった小西康陽の映画メモのことを思い出して2019年版を探す。一年に510の映画を見ることとはどういうことなのだろう。自分もたとえば大学生の頃ならばそのようなことが可能だっただろうか。競うように映画を見ていた時期が確かに一瞬あったかもしれない。しかしこの映画リストはそのような「競うように」ということとは全然違うのだろう。何度か(あるいは毎年)書いているような気がするけれども、そのような生活を夢見る気持ちと恐ろしいと思う気持ちの両方がある。それは去年の後半に松本圭二の文章でフィルムアーカイブを仕事とすることについて考えたときにも似た印象を持った。当然のことながら誰もが(あるいは誰も)できることではない。生きている時間のうちの幾らかを写された過去の時間を見ることに明け渡すこと。

 

・映画メモの中に「劇場で映画を観る」ことの理由として「裸眼で楽しむことができるから」と書かれていて、それもまた興味深い。裸眼とはどういうことなのだろう。それはものをはっきりと見ようとしなくてもよいという状態のことだろうか。映画を見る(あるいは観る)という態度のほかに、映画を眺めるというような態勢もあり得るのだろうか。「向こうで起こっている出来事を距離を持って認識する」ということ。と、いうようなことを考えたのは、先週鑑賞した同僚の展示から考えたことでもある。映像(写真ではなく)によって「見ること/観ること/視ること」を問い直す、ということは、どんなに一見シンプルな構造であっても、つねに複雑であり、最終的に構造に固定することは難しく、構造は壊れる(あるいは忘れる)。「見ること/観ること/視ること」を問い直す、ということはつねにあり得る実践だが、その時代の、メディアの環境、政治的な状況、政治的意識によって、別の課題が設定されるのだろうか、というようなことを考えた。

 

ジャン・ボードリヤールが「湾岸戦争は起こらなかった」と書いたとされることは、そのキャッチのあるタイトルが一人歩きしている部分があるにせよ、ある時代のメディア環境、政治的な状況、人々の政治的な意識の中で生み出された言説であるのだろうと思う。いま、そのタイトルから印象を得て、テキストを開き、そのロジックを理解したとしても、読み手の考えが更新されるような感覚は得られないように思う。いずれにせよそのロジックには「戦争」を、映画を眺めるようにして「見ること/観ること/視ること」に対する問い直しがある。では、小西康陽という人が言葉にする「戦争」はどうか。小西康陽が引いた「戦争に反対する唯一の手段は」という言葉をいつも思い出す。あるいは、菊地成孔が色々な表現に忍ばせる「戦争」はどうだろうか。それぞれの表現の中に書かれた「戦争」は、それぞれ別の角度から、しかしいずれも何かを問い直すことを促す。そのようにして、色々な事象を引き合わせたり重ね合わせながら考えていたのは、やはり年が明けて早々に「緊張状態」なるものが伝えられたことに依る。「これはもう第三次世界大戦です」という文字が一瞬増殖して数日後には消える。批判ではなく、そのことはいったいどういうことなのだろうと考える。戦争それ自体を見つめることはできず、いつでも「戦争が伝えられること」について、あるいは「戦争という言葉が発せられること」について考える。考えることしかできない、のか?

 

・眼鏡を新調した日記を書くつもりだった。10年前に運転・授業・各種鑑賞用に無印良品で「とりあえず」買った眼鏡を問い直すことなく使い続けて、無印良品の眼鏡を修理に出したタイミングで「安いから」という理由でZoffという店でもう一つ同じような物を買い、しかしふと「人生で(老眼のことを考慮せず)眼鏡を購入することはこの先あるのだろうか」と考えたのだから、何かを新調する種類の買い物をしたい気持ちがすべて眼鏡に向かった。眼鏡のことがなにもわからないのだから数日のリサーチののち、金子眼鏡という店が良いのではないかと考えて下見のつもりが、あまりにも親切丁寧に接客してもらったこともあり、あっさりと購入。自分が本当に気に入って、納得して、生きている限りにおいてこれが最後の一つになったとしても構わない、と思いながら何かを新調することの良さ(あるいは不思議さ)。それは戦争に反対する唯一の手段と何か関係があるのだろうか。中断。