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  映像研究

(よく)見ること

・休日。主に自宅。「見ること」について考えている。「見ている対象」や「見えている事実」について考えることとは異なる。積極的に、意志的に、見つめる行為を問うている。生活の必要のために見ることではなく、見つめる行為自体の度合いを想定している。それを「よく見ること」と言える。「より良く見ること」でもあり「よくよく見ること」でもある。

 

・作品が展示されている空間に行けば、「よく見ること」をする。見つめられることを想定した作品が置かれているから、おのずと見つめる態勢になる。いま「見つめる態勢」と言ってみて、それはどのような「態勢」だろうかと考えてみる。その作品が「どのようなものか」と知ろうとする。見ることは知ることでもある。知識ではないから到達する地点はなく、自分が納得できるところまで知れば、見ることをやめるかもしれない。

 

・一方で、「作品」ではない、何かの事物を「よく見ること」とは、どういうことか。目の前の石や柱や葉を見つめることがある。それは見つめる行為の度合い自体を、そのはたらきを、確かめているのか。人工物ならばその事物がその場所にそのように置かれている来歴は、ある意味での知識と言えるかもしれないけれども、それを確認することを求めていない。目の前の事物の質を感じている。存在として感じているとも言いたくなる。「存在」と「度合い」とは近しい。見つめる行為自体に快がある。この「快」について考えているのか。事物はどのようなものでもあり得る。どのような事物であれ、見つめる行為の先には快がある。仮に「快」と言ってみて。

 

・この意味でシュルレアリスムのオブジェという考え方とは異なるように思える。オブジェは度合いを問題としていないのではないか。たとえば「ありふれた事物を展示または映像化することでまじまじと見させる」とは言っても、実際には「まじまじと見る」ことよりも一度きりの驚きの方が優先されているように思える。100年前の潮流だけれども、この方法は現代でも用いられることがある。とはいえ、このような美術の問題としてではなく、見ることを問う方法を探している。問いの糸口を探している。

 

・こうした問題圏の「見ること」は、「祈ること」つまり信仰の問題と関わる。自分は信仰の実感がないから、色々な個別のケース(運動や思想)に学ぶ必要がある。民藝の基礎にある考えとはどのようなものか、山岳信仰に基づいた山岳写真とはどのようなものか、ラスキンの哲学とはどのようなものか、と考えていると概ね19世紀真ん中くらいから20世紀前半くらいまでが関心の場になってきた。むしろ20世紀中盤以降の機械映像が送り届けられるようになった世界に生まれた人は、本当に「見ること」をしているのだろうか、と大袈裟であることを承知の上で問うてもよい。「見ること」をする間も無く「伝達すること」に忙しい。もしもベンヤミンの映像論を読む意味があるならば、こうした問題を仮設した上で読むべきだろうとも思う。

 

・写真を含む機械映像による表現行為を、以上の関心領域としての「見ること」との関わりにおいて考えること。部屋に積まれた諸々の本を束ねるために差し当たりこのように素描してみる。今までで一番勉強をしたい。