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  映像研究

風景から

・土曜日。午前中は家に。数日前までの書く作業が途切れて、なおかつ最終的に提出できなかったこともあるだろうか、全身が滞った感じになっている。少しの頭痛は低気圧のせいかもしれない。

 

・午後から外出して馬喰町。kanzanギャラリーというスペースに初めて来た。川崎祐「未成の周辺」という展示を鑑賞してトークイベントを聴く。風景という問題が関わる作品でもあったから、東京都写真美術館の「風景論以後」も参照されつつ、話題が展開していた。話されることは興味深く慌ててノートを取りながら。

 

・「写真」について考えていて、「風景写真」についても考えていると、必然的に「風景」ということについても考えるようになった。「風景」については既にさまざまに論じられて定義もされている。その多くは「風景」を文化的に構築されたものとして捉える。意識にのぼらない制度として、共同体的なイデオロギーを強化するものとして、視覚的なニューメディアと並走するものとしても、捉えられるのだろうか。

 

・その意味での「風景」については考え、考えた上で一度まとめておくべきと思いつつ、考えるほどに、自分の関心は「風景」とは少し別のところにあるのかもしれないと思うようになった。あるいは、思考しがたいことと思いながらも、少なくとも自分は「風景」以前の何事かを考えてみたいのだと薄々感じていたがそのように気がついた。

 

・たとえば、「風景」と同様に、捉えることが難しいものとしての、あるいは「風景」と一部重なるものとしての、「自然」はどうか。「自然」と「写真」の関係とは、と問うてみて、しかしそれでは写真の原理を確認する以上に何事かを考えることは難しいだろうか。そして、そのような地点で撮影について考えるならば、何を考えられるか。物質に還元することでなく、制度を批判することでもない、写すことはあるかと問うてみる。

 

・まず一つには、写すこと以前の「見ること」について、「眺める」「凝視する」「見つめる」などの「行為」がそもそもどのような営為なのかと考える必要がある。この問題についての、主観的な仮説(あるいは「感覚」や「理想」)は持っているが、それが妥当なものかどうかを検証する必要がある。

 

・もう一つには、カメラによって写すことをどう考えるか、という問題があり、「見たものを写す」という原理的には不可能な課題について、それがどのような意味で課題とされているのか、どのように実践されたのかと考える必要もある。これは考える方法が分からない。

 

・そしてまた少し別のこととして、しかし、もっとも考えてみたいこととして、「見る」こととは、視覚に関わることだけを意味しないのではないか、という問いもある。比喩的かつ詩的には「全身で見る」と言えるが、それは、どのような意味において「全身」なのか。「みる」の意味の広がり(観る、視る、診る、看る)もそのような意味で考えたい。

 

・中断して。