&

  映像研究

メモ(避暑、自分が見たままを写真にする、上昇する気温)

・202206281840。今は6月。梅雨の明けた、夏本番の、でも6月。そんな語義矛盾のような世界を生きている。夏は毎年新たな記憶を刻み込んで消えていく。あるいは浮かび上がり沈み込む。この異例の夏がどのような曲線を描くのか、自称夏評論家としては楽しみではある。それにしても暑い。暑すぎる夏は普通に危険。12:00まで扇風機を頼りに書類のプリントアウト作業を行うが、諸々の買い物が必要であったことを言い訳に避暑。

 

・それでコーチャンフォーに来た。諸々の買い物を済ませてドトールで作業。ドトールに集う人々を眺めて、突然来た夏に誰もが戸惑っていると思う。そう思うのは自分がそう感じているから、「誰もが」そのように見えるに過ぎないことを知っている。16:30まで。

 

・昨日体験した「Yoshiko Seino Magazine Works」について考えている。考えたことを少しだけ書いてみる。以下。

 

・「自分が見たままを写真にするという意味では、まだまだできることもしたいこともするべきこともたくさんある」という清野賀子のインタビューの発言における、「自分が見たままを写真にする」という部分がずっと気になっている。普通の表現のようであるが重い。既に一度少しだけ検討したことがあるが、彼女は「普通の意味での写真ということで言えば、今の時点でもあるレベルまではクリアしていると思う」と述べた上で、「ただ、」と区切り、冒頭のフレーズを述べた(と書いてある)。この「自分が見たままを写真にする」とはどういうことなのか。

 

・「普通の意味での写真」が有する筈の「あるレベル」の先に掲げられた指針であるが、この「自分が見たままを写真にする」ことは「クリア」されるようなものではない。むしろどこまでも「その状態」に近づこうとする努力目標のようなものであり、言い換えれば、写真家である清野にとっての「探究」の中心が、この「自分が見たままを写真にする」ことだと考えることができる。それは具体的には、「自分が見たまま」を「写真にする」行為、つまり撮影行為として実践される。

 

・しかし当然のことながら(一応確認しておけば)、撮影によって「自分が見たままを写真にする」ことは誰にとっても等しく、言葉の通りの意味で実現されることはない。ではそれは写真家の幻想だろうか。そう言い切らないとするならば。「見る」ことの中には、「何を」「どのように」(見るか)という精神のはたらきがある。そのような精神のはたらきとしての視覚を映し出すこと。精神のはたらきとしての視覚を映し出すものとして写真があり得ることを示す実践。彼女の撮影行為をそのように言い換えられるだろうか。

 

・以下はメモ。この「自分が見たままを写真にする」ことと〈精神のはたらきとしての視覚を映し出すものとして写真〉という問題系に、「人を写すこと」がどのように関わってくるのか、というあたりが議論の基礎になる。「風景」も「スナップ」も議論にとってはあまり重要とは思われない。「ファッション写真(であること/とは何か)」は議論の導入になり得る。それにしても「人間を写すこと」が絶対的に重要だという確信がある。

 

・そして彼女が構想を温めていたであろう1980年代後半のこと、そして実際に眼差しの先に在った1990年代のこの世界/社会のこと、そして「(『至るところで 心を集めよ 立っていよ』の言葉を借りるならば)加速」していく2000年以降について、考えてもいた。言葉にしてかつての時代をつかまえることも難しいと感じる。

 

・中断して。このように考えていることと外界で起こっている事象は「上昇する気温」を接点として繋がった、というのは後付けだけれども、数日前にDISCO TO GOを思い出したから、定期的に試聴する『天気読み』を再生する。自分にとっての1994年前後の「上昇する気温」が刻まれている映像を見て、1993年の冷夏と1994年の猛暑を、いまこの時つまり2022年に蘇らせる。そのBGMとして『天気読み』がある。テープ切れるんじゃないかと思うほどに中学から帰宅後毎日見たVHSの映像は普通にYoutubeにアップロードされている。

 


www.youtube.com