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  映像研究

合宿_3/3_自宅で

・202306281857。ここは自宅のデスク。合宿的な3日間の最終日。写真についてのテキストを書き進めることは叶わず、テキストを書くことではなくテキストを読む一日になった。そうして気づけばあっという間に10:00から19:00までが消える。

 

・手当たり次第に読む日。読み考えたことを書いておく。そうでもしないと何も残らない。残らなくても良いと思いながらも、しかし次に考えるときのために、何らかのしるしはあったほうが良い。

 

・写真について。特別な事象のルポルタージュではなく、また被写体=対象のタイポロジーでなく、撮影者の生活の記録とも考えづらいような写真群について、いったい何が書けるか。そもそも書く必要はない。けれども書きたいと思う。そう思うのは自分。説明し難いが、その写真には何か重要なことが読み取れると思う。そう思っているのは自分。ここが出発地点になる。

 

・写真を読み、言語化する。ことは難しい。写真に写っている事物についてではなく、撮影した者の経歴ではなく、写真について言葉にすることなど不可能かもしれないと思う。それでも、まずはイメージを描写することを試みるべきだろうか。その描写は、撮影する者の撮影行為を浮かび上がらせるだろうか。「浮かび上がらせる」という表現が曖昧に過ぎるならば、撮影する者の撮影行為を仮構するとは言えるのか。写真について述べた文章に頻出する「まなざし」とは、この撮影する者の撮影行為の仮構を指すのだろうか。

 

・「自然美」という語が気になって検索したならば、カントの「判断力批判」の説明を含む短い論文を見つけて読む。そこには「カントは芸術美よりも自然美に価値を置いた」と書かれていて、それは果たして比較できるものなのだろうかとも思いつつ、それはさておき、では写真とは、「芸術美」と「自然美」のどちらに関わるのだろうかと考える。さらにそうした問題から、ラスキン『近代画家論』における「自然」「風景」概念についても知りたい。

 

・ふと去年京都にYoshiko Seino Magazine Worksを観に行ってからちょうど一年経ったことに気づく。写真について考えることは全然終わらない。膨らみ続けている。

 

 

・適当な時間になったら中断する。部屋を見渡して。今日はリビングのラグを夏用の物に替えた。室内の温度計は32℃を示していた。何度か洗濯機を回した。季節の変わり目にいる。ところで今年の夏は凄く良い夏になると思う。予想でも予感でもなく願いあるいは祈りとして、そのように書いたり言ったりしても良い。