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  映像研究

湧き立っているものを抱きしめる

・202209092110。帰宅する京王線で書いてみる。金曜日は夕方から業務。差し迫っている時には午後あるいは午前から職場で準備をするが、今日は午後まで家で作業をして夕方からの授業に間に合うように家を出た。

 

・作業中のラジオの代わりになる人の声を探してYouTubeへ。Weekly Ochiaiの「なぜ、僕たちは動きすぎてはいけないのか」と題された千葉雅也との対談を見つけて視聴する。見終わってこれは無料部分だけでなく全編見たいなと思って、勢いあまってnewspicksに登録してしまった(無料期間で解約すべきか)。

 

・もう10年近く前に出版された『動きすぎてはいけない』が題名となっている点に惹かれたことと、確か以前千葉雅也という人はTwitterで、落合陽一の写真にボードリヤールの写真と近しいものを感じる、という意味のことを書いていて、あ、それ面白い、というか鋭すぎる、と思ったことが記憶にあった、などの理由にならないような理由により登録してしまった。写真のことが話題にされるという予感があった。

 

・有料の部分の内容について詳しく書くことはないが、あらためて落合陽一という人の「イメージ」と「実体」あるいは「実在」についての考えを聞くことは面白かった。そしてこの人の写真に対する関心の殆どが「写真を撮る」という行為に向かっていることを確認した。千葉雅也がボードリヤールと共通すると感じたのはその点ではないか。そのことを、(おそらくはネットに流れてきた)写真のイメージを見る(読む)ことだけで直観し得たことにかつて驚き、そうして今もずっと考えている。

 

・「写真を見る」ではなく、「写真を撮る」から考えをはじめること。それは昨日メモとして書いた、ロラン・バルトの『明るい部屋』とは全く別の方法で写真を考えることになるだろうが、その「別」が「逆」かどうかは分からない。「撮る」と「見る」が「逆」であるとつい考えてしまうのは、撮影の場面の典型を想定し、撮影者と被写体が正対している様子を思い浮かべ、さらに獲得された写真イメージを正面から見ることで、撮影者と観者の眼差しを(仮想的に)重ねて捉えていることによるだろうか。それはそれとして、端的に、「撮る」と「見る」は別に「逆」ではない。

 

・「写真を見る」ことを考える上で「欲望」という語を介在させることができるように、「写真を撮る」ことを考える時に「欲望」を考えてみても良い。「撮りたい」、「写したい」という精神の動きを正確に捉えることができるならば、それは検討に値する考察になるかもしれない。この欲望をパラフレーズして「所有したい」という表現があり得ると思いながらも、自分としてはあまりぴんとこない。「所有」は、捉え、掴み、切り出し、手に収める、という行為の総称だろうが、自分にとって「写真を撮る」ことは、そうした欲望とは別の通路を持つように思う。

 

・「受け止める」あるいは「受け留める」という表現で撮影が語られることもある。機械と媒体のはたらきの点からは、確かに(センサーあるいはフィルムが光を)受け止める、と言えるが、では完全に受け身だけであるかというと、それもまた違和感がある。

 

・こうして撮影は、完全に能動的であるとも受動的であるとも言い切れない行為として考えられる。事実として、世界=光は既にあって、その内に存在する者がカメラという機械を使って、その光の一部を(という表現が正しいか?)引き出すが、もう少し「感じ」を言語化してみると、たとえば、「飛び込んでくるものに飛び込む」、「浮かんできたものに吸い込まれる」、「湧き立っているものを抱きしめる」、などと言ってみることができる。言ってみることしかできないのか。「湧き立っている」と見るのは私だけかもしれない。中断して。