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  映像研究

ノート(俳句と写真)

・202204272001。今日の作業を切り上げて夕食の前に半身浴しようと思い立ち(夕食のあとは大抵気絶するから)湯船に浸かりながら書いても良い。

 

・今日の作業は7:00から少しはじめて家族を車で送るなど中断ありつつ9:00に開始。昼休みと昼寝以外は継続して19:30まで。期待していた進みの70%程度だったが(いつも凄く期待している)良しとする。明日と明後日は業務が続くが並行してもう少し進めて金曜日には一度報告する。あと2日。

 

・写真について考えて書いているが、いまは俳句との関係で写真について考えて書いている。あるいは俳句と写真の共通点について考えた約100年前の文章を読み、その議論を検討している、というのが正確なところなのか。アウトラインはできているが(できている、と思っているが)、なめらかに描こうとするとところどころが引き攣れるようにうまく書くことができない。

 

・ふと俳句について考えて、そういえば自分は俳句を作ったことがない。厳密には一度ありそれは予備校の授業だった。全然興味が持てず、なぜ映像を専攻するのに俳句を作らなければならないのかと思って軽く流していた。何かを考えていると過去の自分の浅はかさに打たれることがある。

 

・10代後半の自分にとっては俳句は限られた文字数で、何らかの意味を伝達するものだと思っていたふしがあり、描写ということの意義がまるで分かっていなかったのだと思う。写真という表現を通して風景というものの魅力は感じていたが、それさえも何らかの内面的なものの写しとして考えていたように思う。と書いてみて、しかし風景を写した写真を見て、理由なくそれを良いと思う、という時点で何かの入り口には立っていたのかもしれない。時に過去を好意的に解釈する。

 

・俳句と写真がともに「自然」を対象とすると言うときに、その「自然」とは何か。その「自然」は「人工」と対比される概念ではなく、むしろ「風景」という考えと似ている。つまり自分の身体を取り巻くもの、あるいは自分の身体と浸透する諸物質の流動として「自然=風景」を考えてみる。これは今日書いていた文章の一部。

 

・俳句を詠む、と言ったときに、それはいつのことを、あるいはどの瞬間のことを(瞬間?)のことを指すのか。写真には「シャッターを押す」というわかりやすい行為があるけれども、それさえも撮影の全てではない。では俳句を詠むとは、どのような行為として定義できるのか。これはいま思いついたことだから明日以降どこかに埋め込みたい(それほど適当なアウトラインだった)。

 

・もうすぐ到来するらしい黄金週間は基本的には書く作業だが、あとは部屋の片付けをして、あわよくばカイロプラクティックにお願いして、さらには筍堀りをしたい。いずれも場所と身体と生命に関わるアクティビティ。