&

  映像研究

合宿_2/3_図書館へ

・202306271657。ここは中央図書館。過去の日記を辿れば去年の11月以来だから半年以上ぶりに図書館で作業している。広い箱状の空調が安定した空間で作業する贅沢。午前中に2時間と午後に4時間もその贅沢を味わい尽くして今は夕暮れ。

 

・昨日の猿田彦の3時間で荒く書き出された文章を読み直しても、それに続く文章を書くことができない。どころか、むしろ、昨日自分が書いた文章を読めば読むほどに道は険しい。論証ができない事柄を扱い、しかも複数の切り口を並べることに留まらざるを得ないような範囲で、走り出そうとしている。気がついたならば一旦解除する。前提から疑う。動機から考え直す。言葉を扱うことを顧みる。三歩進んで五・六歩さがる。

 

・ちょうど博士論文のpdfがリポジトリに上がりつつあるようで、本文はまだだけれども「論文内容の要旨および審査結果の要旨」というものが読めるようになっていたならば、その審査結果の言葉に励まされる。

 

・そして「撮影について」。

 

・写真を撮影することとは、どういうこと(行為)なのか。と、そう問うている。そして、そもそも、見ることとは何なのかと、継続的に、あるいは断続的に、考えている。知るために見るのではなく、味わうように見ることがあり得ることを、この10年くらい特に近い5年くらいで少しずつ分かってきた。同時に、これまで「見ることを鍛える」というような言い方に馴染んでいたが、むしろ「見ることによって鍛えている」という感じもしている。その場合には、いったい「何を」鍛えているのだろうか。自身を?自身の何を?と言ってみても、とても漠然としている。

 

・生きている中で、何かの必要のために判断することではなく、見ること自体が生の実感であるような瞬間がある。その、瞬間の、実感それ自体を、保存することはできない。写真にも写すことはできない。そもそもカメラを持っていない、こともある。一方で闇雲にカメラを向けたところで、そのような実感が訪れるはずもない。撮影はその二つの感じの間にあるのだろうか。撮影に赴く「引力」は、その間の「度合い」としてあるのだろうか。「引力」は「予感」に近い、のだろうか。「予感」とともに生きるということが、撮影者の生なのか。

 

・風景や場所であれば、まずは「そこにいる」ということが重要。人物であれば、まずは「出会う」「見つめ合う」ということが重要。あるいは「約束する」「呼びとめる」ということが。シャッターを押す以降の必然としてのイメージの出現ではなく、シャッターを押すに至る過程をどう積み上げるのか、ということを考えてみたい。あるいは、どうしてその現場に立っているのか、ということさえも。適切な指示を送れば、後はカメラがイメージの出現への道を敷く。だから「いま、ここで、お願いします」と言えるまでのことを考えなければいかない。

 

・写真を撮影する者の内には、視線のミダス王のような存在が、いるように思われる。視線を送れば世界が輝く。つまり、他ならぬ私が見るならば、この世界は、この世界の本当の姿を現す、と、そう思っているというよりも、単にそのように見えているのではないか。(スナップ写真とは、そのような感覚に導かれるままに撮影された写真のようにも思われる。けれども、撮影は感覚には決して追い付かない。スナップ写真は、だから、本当は、決定的に感覚から「遅れている」写真であるように思える。)

 

・18:00が近づき中断する。2日目の記録。

 

・追記。初夏の蒸し暑さへの抵抗。いわゆる暑気払い。その暑気払い開き(しょきばらい・びらき)たる今日。車で酒屋へ向かい手にしたのは、ヒトミワイナリー「Soif Rose 2022」。低アルコールだからと家族と二人でごくごく飲んでしまった。スチューベンにはエスニックな料理が合うことを認識する。クミンシードを振った肉などが美味しい。