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  映像研究

ここは、

202002180930。ここは中央図書館。久しぶりに図書館で作業をはじめる。どのくらい久しぶりか。2019年12月13日の日記に図書館に来た旨書いてあったので約二ヶ月ぶり。朝の図書館は何でもできそうな気がしてくる。

 

・昨日平日昼間の電車に乗り周囲を見る。ウィルスのことが報道されるようになってからはじめてそのような視線で公共空間を眼差す。ウィルスは肉眼では見ることができない。この見ている光景にそれは存在しているのだろうかと思うが、見ることでは確かめることができない。Twitterにそのことを書いている人がいたが、その見ることの不能は確かに2011年の3月の時と少し似ている。中断。

 

・202002181201。午前は結局図書館で読書。雑誌コーナーで新潮。千葉雅也という人と岸政彦という人の対談を読む。論文と小説の違いについて話されていて、そこからふと思い出して千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』を読む。かなり前に(元)同僚におすすめされていたけれども手にするタイミングを失っていたので、図書館の本棚で見つけて。読んでいて気になったことを、自分の研究に関わることと、業務つまり授業運営に関わることの二項目に分けて箇条書きしてみる。どちらでも「他者論」と呼べるような考えが重要になっている。とこのように書いていて、自分の場合は(この)macbookにテキストエディットで書いてみるメモのようなものが、いつでも考えを0を1にする方法であると言えるだろうか。

 

・研究のサイドから。メモ。写真を撮影する行為が自己の生成(絶えざる崩壊と再創造)である、と言ってみて、しかしそれをどうすれば説得的に展開できるだろうか。すべての創作行為がそうなのではないかという視点はあり得るが、同時に写真の撮影が創作行為なのかという別の視点もあり得る。他のジャンルやカテゴリーと比較することが有効な方法となることはあるが、それ自体が罠となる状況もある。つまり「AとBを並列に扱えると考えていることが間違いである」ということ。写真の撮影は芸術作品の創作とは異なる。テキストを書くことと少しだけ似ることもあり得るが根本的にはまったく違う行為である。まずその特異性を出発地点とすること。

 

・その上で写真論と芸術批判は両立する。写真論と言語批判も一致する。というかせざるを得ない。もちろん多くの(現代芸術に関わる)制作者はこのような考えに否定的であるだろう。「あらゆる制作者もまた様々な媒体とともに『自己の生成(絶えざる崩壊と再創造)』を行っている」という批判的な見解はあり得る。だからボードリヤールは(おそらく自分の撮影の感触と何らかの予感を手がかりとして)写真をもっと遠くに置いてみる必要があると考えたのではないか。「制作」というような考えが入り込む余地のないところへ。それはメディア=テクノロジーに還元することとも異なる。