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  映像研究

儀式、雨

・後から書いておく日記。梅雨らしい雨の日曜日。一日中雨が降ったりやんだりを繰り返す。肌寒いと蒸し暑いが共存する。明るいが影はない。

 

・妻の家族の法事へ。特別な行事であり儀式だがそれが行われること自体が日常という感じがある。少し前まで生きていた人がいないということや、生きていた時間から少しずつ離れ続けるということの不思議を感じて思う時間が設けられている。「携帯電話は電源をお切りになるかマナーモードに設定ください」と言われればそれが演劇的儀式であることを考えた。そうしてこのような儀式を繰り返すことで、多くの場合は少しずつ自分自身が死に近づくような感じを得るのだろうか。人がいなくなることに慣れる、と言ってみて、しかし死はすべて特別な出来事でもある。そうして考えを巡らせているあいだに、同じ時間を生きた誰もが文字通り「ひとり残らず」いなくなる。いま子どものようにその不思議を問うても良い。

 

・いま生きている人間は、たとえば岩盤浴で汗を流しながら、寒い季節の身体と暑い季節の身体が全然違った感じを覚えることを考えていた。血液がめぐる様子を想像しながら。帰宅したならば、マスカットベリーAのワインにはなぜ和食が合うのだろうかと思いながら、舌の感覚を感じ尽くそうとする。クリームチーズのかたまりにフジッコの佃煮(さんしょ昆布)を乗せたものとワインの関係を探る。あるいは法事の返礼品で戴いた羊羹との関係はどうか。研究は深夜まで続く。

 

・日曜日の業務を同僚に任せることができたことは大きな前進。そう思うことにする。少しずつ、業務ないし仕事なるものと自分の存在とを切り離して、切り離すだけでなくそれぞれが「自立」できるようになればよいと思う。今よりもさらに、自分の言葉で話すことができる。