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  映像研究

委ねること、聴くこと

・丸一日業務の日曜日。今のような通常期間の日曜日は毎週授業をしている。主に自分が担当することが多い授業だが、この日に限ってその大半を同じチームの同僚(後輩)にお願いする。別の仕事が重なっていたから自然にそうしたのだけれども、同時に、そのように業務の仕事を他の人に委ねることに挑戦したかった。それはつまり自分の仕事を別の人に受け渡す(あるいは自分がいる場所を明け渡す)練習のようなことかもしれない。

 

・チームで仕事をする際、人に説明しお願いするよりも、自分がした方が早いから自分でする、ということを続けていると、チームの人たちの経験の機会を奪うことになる、さらには成長を阻害する、という当たり前の事実を数年前に知り、知らなかったことに衝撃を受け、反省し、しかし、どうすればそれを変えることが出来るのか、考えても難しい。けれども難しいことは少しずつ実践し、実践しながら考え続けるしかない。そしてその実践は、これまでのあらゆるコミュニケーションを点検することを必要とした。今年度の、今の自分の、大きな課題。

 

・自分が書いた台本を渡して他者に演じて貰うようなことではなく、一緒に台本を書き、それぞれが自由にいきいきと演じるような状態は、どうすれば生まれるのか。と、このようにプレイヤーとしての思考とは異なる次元の思考が浮かぶ。メタ化することを免れない。こうした問題に対して、マネジメントの本など読めば、たしかな正解が書いてあるのだろうか。

 

・夕方には業務における面談。気がつけば2時間ほど話をしていた。こちらから何かを伝えることよりも、特に話を聴くことが必要と感じたから、積極的に聴いてみることをする。聴くという行為の自覚。そのありようを探る。確かに役割だが役割としてのスタイルを超えて何より正直でありたい。そのように「正直でありたい」と思うことができるかどうかが重要であると最近強く感じている。2時間の面談が終われば首が硬直していた。もう少し力を抜いた体勢でこのような聴く行為ができないものか。これもまた発見であり学びだと思う。

 

・委ねることと聴くことに共通して求められるのは「待つこと」かもしれない。待つことは行為ではなく姿勢でありアイデアであるように思う。自分にとって待つことは簡単ではない。待たずに、あるいは待てずに、動作してしまう。言葉を発してしまう。沈黙に耐えられず一歩先に飛び出し、それが任意の道筋を示すことになる。別の方向にのびようとしていた他者の思考を消し去りながら。

 

・待つことは信じることと関係があるのではないか。待つことは即ち信じることと言えるか。待ち信じることは自分が予想した「解答」ではない。そうではなく、他者の内なるものがいきいきと動きはじめることを待ち信じている。新しいものが生まれることに驚きそしてどこかへ向かって移動するならばそれを見送りたい。中断する。