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  映像研究

ラジオから

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・後から書くからこれは記憶あるいは反芻。日曜日は朝からのイベント業務。自分の準備不足や確認していなかったことなどを原因として、さらに小さなイレギュラーが積み重なり慌てながら一日をなんとか終えた。8:30から20:00までの約12時間が消えた。帰宅する京王線で主にそのような業務の諸々を反省。「反省」と思いながらしかしスマートフォンを取り出してニュースをつるつるしてみたならば、全く違った事柄についての「反省」の行方について、果てしなくメタレベルの言説が増殖していて思わずスクリーンも目も閉じる。

 

・帰宅してタイムフリーでTravelling Without Movingを流しながら夕食。家族がデパート地下の飲食するコーナーで習得(?)したという和風アヒージョ的なおつまみなどを頂きながら飲む。Travelling Without Movingはフィッシュマンズを特集していて、後半にライブで録音されたいくつかの曲がかかる。自分もいくつか好きな曲がある。当時のフィッシュマンズの受け入れられ方の感じと現在の位置付けの変化など、ああそうだなと思いながら野村訓市の語りを聴く時間。並行して「90年代」や「雑誌文化」というワードから、うっすらの現代のニュースのことなども再びよぎる。

 

フィッシュマンズの曲は歌詞のモチーフやテーマだけでなく反省的あるいは内省的なものであると思う。正しい意味で。「みんなが夢中になって暮らしていれば」の『幸せ者』も今こそ味わいたいが、しかしこの夜どうしても聴き直したくなったのは『バックビートにのっかって』だった。自分の内で、あるいは自分の遥か遠くで、一つの音楽が鳴っているという感じ。その感じに慰められる必要があった。

 

・沈黙もせずに、しかし自分の立っている場所で/自分の内から、言葉を発するためにはどうしたら良いのだろうか。身近な出来事やニュースで見聞きした情報から、あるいはその伝えわり方から時々そのようなことを考える。考えることを強いられる。

 

・そして「他者」の「反省」を「批評」するとはどういうことなのだろうか、とも考えていた。他者の反省を批評するとき、他者の内は本当には知ることができないという、根本的な敬意のようなもの(それは特定の他者に対するものではない)が損なわれてしまっているように思われる。しかし「驚き」や「怒り」がそれとは全く別の次元につねに個人の内に絶対的に湧き上がることも否定すべきことではない。否定できるものでもない。そしてこの二つを適切に保ち続けることは難しいことだと思う。

 

・この現実は無数の「怒り」の結果によって今この様にある、と考えるべきなのだろうか。中断。