&

  映像研究

「楽しい」

・日曜日は丸一日の業務。9時から19時までがいきおいよく消えた。

 

・生活していると、働いていることと生きていることについて考えることがある。「労働する」、「働く」、「仕事する」は、自分にとっては微妙に微妙な違う意味を含んでいる。「労働する」は制度の中での役割を感じさせる。「仕事する」は身体の動作のイメージと繋がる。「働く」は、もう少し大きな意味、言うなれば「生きて動いている」ことと同義として用いたりもする。これはあくまでも自分の用法として。

 

・一つの場所で活動をしていると、少しずつよく見えるようになる。他者の、「労働する」、「働く」、「仕事する」が見えるように思え、何か「分かる」とすら思えることがある。一つの動作や一つの言葉を、サインとして読み取れるように思える。自分が確かに何かを受け取っていることを信じつつ、同時に「分かる」と思うことをつねに疑いながら、見聞きし続けること。それは適度な緊張と弛緩の間に成り立つ認知ではないか。

 

・「フェーズ」とか「ステージ」などと考える。考えざるを得ない、のは自分が数年前とは全然違うことを考えていることに拠る。そのことに驚く。そのことに驚きつづけている、とも言える。たとえば、ちょうど20年前になる木皿泉『すいか』の印象的な場面に「生きてみないと分からないことばかりだった」という言葉があった。今から20年前にその言葉に確かな意味を受け取った。それは実感とは異なる。それを予期していたのでもない。映像の中でその言葉が語られる、その言葉に惹きつけられたのだった。そして今思い出している。本当にそうだと思いながら。

 

・職場で難しい状況があることを共有している場面。偶然のタイミングで緩んだ空気になり、自分の両隣の人がそれぞれに「今が一番楽しい」と言葉にする。その言葉に力をもらったのは自分だ。力強い肯定。自分を肯定するのではない、個別の生活を超えた、生の肯定と感じた。だからそれはギフトのような瞬間だった。その瞬間を、写すことはできない。描くことはできるだろうか。

 

・記憶を読み解き「生きてみないと分からないことばかりだった」を受け取ったならば、それを現在の動きに、未来とも呼ぶこの現在に適用できるか。めりこみ続ける新しい時間を楽しみながら「生きてみる」ことはできるか。それはいかにも強者の思考の道筋に過ぎないのかもしれない。どうすれば目の前の人が今よりももっと「楽しい」と思えるのだろうか?あるいは、笑顔は分かりやすく「楽しい」のサインと読み取れるが、それだけでない深く広い「楽しい」はあり得るのか?いまそんなことばかり考えてる。

 

・「楽しい」とは何か。それを「生き生きとした」と言い換えれば、少し哲学らしいのか。物理的に激しく移動していなくとも絶えず振動しているように、生きて動いていることを受け取れるならばいい。