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  映像研究

一枚の写真(画像)

・思い出しながら書いておくこれはノート。日曜日は丸一日の業務。9:00から19:00までが消えた。

 

・毎年この時期には学生と呼ばれる人たちの自由研究の発表を聴く。自分が何かを説明することよりもよっぽど内容が充実していて話す言葉にも熱があるように感じられる。「課題を出しているこちらのほうが学んでいます」と言いたくなることを抑えて、それがどのような言葉が発せられた場であったのかを、思い出している。思い出していると、新しく浮かぶ場面や言葉もある。その諸々から考えや自分の学びを引き出せればと思いながら。

 

・帰宅して夕食。タイムフリーで野村訓市のラジオを聴きながら。

 

・友人たちのメッセンジャーに一枚の写真が貼られる。少し離れた場所で再会できた友人たちとその子どもたちが並んだ写真。その写真のことも何度も思い出している。よい顔が映っている。

 

・数日考えていた自分の現在にも勇気を与えてくれるようなイメージ。穏やかだが確信に満ちた感じを受け取るのは、受け取る自分の状態のせいだろうか。その写真に映る人たちと頻繁に集っていた10年くらい前と現在とを照応する。最近は特にたびたび思い返していたことに気がついた。そのように振り返ることが多いのは、この日々が、数年ぶりに「開けた感じ」である(と思える)ことによるのか。

 

・「かつての未来」にいる、と時々思う。今のところ、どんどん良くなっている。

 

・いつよりも、かつてよりも、強く激しく悩んでいても、悩むことと恐怖が強く結びついていない。かつてならば、激しく楽しいこととともに相当な恐怖があった。それがつまり若いということか。そのかつてよりも思い悩むことが増えても、恐ろしいとは思わない。ならばそれを悩むと言う必要もない。考えている。考えることと動くことが一つの生をつくっている。

 

・それがこのようになされているのは(奇跡でもある)、ともに生活する人に拠っている。自分の場合は特にそう思えるが、写真のイメージから自分が受け取ったのは、そのような生の一瞬間だった。別にそれを家族という単位で切り分ける必要もない。世代もいつかもっと別の混ざり合いかたをするかもしれない。

 

・と現在を考える。現在の延長としての新しい時間や出来事を願い望みながら。