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  映像研究

法事の記録と活動の問題

・日曜日は実家で法事。世間的には「七回忌」ということになるらしい。らしいというくらい何事も任せきりで食べることと飲むことくらいしか役目がない。近況の報告。親戚の健康状態について。過去のお金の流れ。妹のライザップ。母親のインスタグラムなど。飲み食いしていたら集合写真を撮るタイミングを逃す。家族とか親戚という役割の中にいるとそれはそれで色々なことが見えてくる。親-子供という関係の不思議さをあらためて思う。人間は生まれたのち言葉らしくものを話すようになりいつからか平気な顔をして過去を語るようになりさえする。親戚が集まるような場にいるとそのことをいつも考える。自分がかつて「言葉を話さない存在」であったことを見ている人がいる。そういう者同士の関係が変化して、今もまだ変化し続けている。そういえば写真とはそうした関係性のある時点を指し示すかもしれない。

 

・同時にそうした関係、集団の中に、経済も政治もあるとふと思う。最近人と話していて、その人が様々な活動をする上で、何を、どのように、拠り所にしているのかと考えることがある。政治的なスタンスだけを根拠にするのでもなく、社会的役割=わかりやすいストーリーだけを当てはめるのでもなく、精神分析的な物語だけに正解を求めるのでもなく、何が、どのように、その人を動かしているのだろうかと考える。その人が、過去-未来のどの地点にどのような出来事を想定し、想定した上で活動の力に変換しているのだろうかと想像し仮構する。それは自分自身もまた直接に考えること多いからだろう。自分に向かって「何のために生きているのですか」と問うてくる者がいるならば、照れずに、メタに逃げずに、何も言っていないだらしなさでやりすごさずに、いつもその問題に正面から応答できるようにありたいと、そのためには日頃から身体を鍛えるように精神を鍛えていないといけないのではないかと、なぜだろうか、いつよりも、考えている。

 

・先週NHKオンデマンドで「欲望の資本主義2020」というシリーズを(作業をしつつざっくりと)見ていた。「人間の欲望には限りがないんです」と言う人がいる。その人間観は自由経済を肯定する上で必要となるのか。あるいはそうした人間観があるから自由経済を肯定するのか。いずれにせよ「それは知っている」と思う。そのように人の欲望を想定するのは最も単純なストーリーで、だからそれがある程度まで事実/真実であるにせよ、その言葉に易々と乗ることはできない。「人間の欲望には限りがないんです」というフレーズを何かの真理を言い当てているように口にする人に対して、抵抗すること。「知っています」と言うこと。「日々それを感じています」と言うこと。「しかし、」と言うこと。そのつぎには「なぜ欲望を否定してまでも・・・であろうとするのか」という問いがあり得る。何かに惹かれたり、何かに囚われたり、何かの中毒を起こしたりすることを、欲望とは別の言葉で解釈しようとすること。いま、そのようなことばかりを考える。