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  映像研究

点検

・202304172126。幸田文『崩れ』を読みながら、半身浴しながら、書いても良い。

 

・思い出して2017年の春の日記を読めば、数年続けていた仕事を止めて新しい生活に踏みこんでいた。しかし体調がすぐれず友人の情報をたよりに漢方薬局へ入門していた。その後幸か不幸か漢方薬のお世話になり続けることはなかった。あの春はどのような時期だったのか。

 

・生活が多少であれ切断され新しいモードで勢いよく色々とはじめたいと思うが、むしろ心身は切断それ自体によって、あるいは切断以前の押さえていた諸々が噴出するようにして、不調が基本になる。きっとしばらくそれが続いたのだろう。今はもう覚えていない日々があった。

 

・それはメンテナンスだった。この2023年の4月の現状をメンテナンスと思い、思いつく限りの内外の事や物を点検する。

 

・今日はルノーへ。カングーの12ヶ月点検。通りに面したカウンターで点検が終わるのを待ちながら少し仕事をして過ぎた数日のことを思い出していた。ここには待つ時間の幸福があり、それがメンテナンスであることにより安息もある。この場所から見る風景はなぜ良いのか。しばし時間を過ごし、カングーは整えられ、小さく修理され、磨かれて、慎ましく停まっていた。それに乗り運転して帰宅する。

 

・明日ははじめての人間ドック。だからいまはささやかなファスティング風味。これもまたメンテナンス。人間の各部分、その多くは普段目に見えない部分を点検する。この身体をまだしばらくの間、いかしきるために、何ができるだろうか。もしもこの先が数十年と続くならば、一年まるごとを点検ないしメンテナンスに充てても全然良い。

 

・見ることは目という器官のはたらきであるのみならず全身の行為である、というテーゼを当てずっぽうでなく、確かに感じつつ理解するには、どうしたら良いだろうか。現在の不調の最中で、そのような問いに対して、おおまかにであれ考える方向や道筋の在処がつかめれば良い。たとえば頭痛を知り、頭脳が首を通って指先まで繋がっていることを感じるならば、見ることと触れることの関係は思弁的なものでもないかもしれないと思う。

 

・論文を書きながら、空間を「見る」ことと、平面になった像を「見る」ことの違いについて考えたが、そのことを、書いた時点よりも、少し実感を伴って理解できる。というか、「空間を見る」とは、いったいどのような行為なのか。視覚について、生理学の側から明らかにされた知識や学を考慮しなければいけないなどとも考える。

 

・昨日家族と5月の連休の旅行を計画した。約3週間の未来を想像して、それはまた少し別の季節であろうと思う。

 

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