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  映像研究

雑感

・202210032133。書いておく。書くことなどない、または、書けることがない、あるいは、書くだけの力が乏しいと思うような時にこそ書いておくと、きっと後で良い。絞り出すように書いた文章ほど読み返すとのちに面白く感じるのではないか。「糧」とも言えるだろうか。そう思って書いてみて、書いてみる年にして、気がつけば2022年も75%が消えた。このまま/ばたばたと消え続けることが予感される秋の導入部。

 

・自分の現在の頑張りではどうにもならないような連絡を送り返事を待つ日々がしばらく続いている。しかしこうした状況も今日に至るまでの自分の怠惰、不義理、不勉強が導いたものだから仕方がない、と(あまりないことだけれども)反省している。おそらく誰もが多かれ少なかれ似た感じを持っているのではないか。必死に「擬態」しているがそれでも適わないことがあると。それは非常に普遍的な心理であるのだろうと思う。それぞれの人に状況ごとの「擬態」がある。記号的な放言としての「やってられない」は、「演ってられない」と表記するのが相応しい。かもしれない。

 

・柴田聡子が曲の題名にしたことによって「雑感」という語の元に記す言葉のハードルが上がったように思う。

 

・昨日は業務を終えた夕方から大手町三井ホールにBialystocksのライブを観に行く。いつでも何の催しでもそうだけれども、チケットを確保した夏の段階で10月は遠い未来だった。そう思い着席したままの約一時間半。本編には一切のMCもなく曲が続けて演奏される。『Over Now』という曲が演奏された時に、自分にとっての2022年が圧縮されて迫る感じがあった。春のある日に車で移動していて『ごはん』という曲が流れ、その歌詞に思わずはっとしたことは2022年の印象深い出来事。「明日が来て/今があるのさ」とは何度聴いても凄い歌詞だと思う。少ない言葉が生の確かさと不確かさを一緒に掬っている。

 

 

 

・会場で偶然にかつて学生と呼んでいた人に声をかけられて少し話したことも面白かった。その人と同じ時間を過ごした2016年の自分はいわゆる「目の下のクマ」が酷く悲壮な雰囲気を漂わせていたが、一方今は比較的元気そうですねと評される。他者は案外自分を見ている。2016年のことは断片的にしか覚えていない。覚えていないが確実に自分にとって特別な一年であったと思う。2016年の先に2022年はある。けれども、2016年の自分とは全然別のことを考えている。別の時間を生きていることに気がついた。

 

 

・自分が好んで聴くようになるポップ・ミュージックの表現には、音楽ジャンルの次元ではなく、何かしら共通点があるのではないかと考えていた。「自然」に対する畏敬の念が感じられること。「自然」と「人間」の本来的な近しさと断絶を意識していることが見て取れること。それゆえに表現の題材に「死」が関わらざるを得ないこと。その「死」は具体的な出来事ではなく場所や風景や事物に潜在しているように捉えられているのではないか。一方でその「死」を物語る身体は生命感に満ち満ちていると感じられる。

 

・「社会」よりも「世界」の方が大きいと思っている。これは思想あるいは信仰だろうか。そうした考えはどうすれば適切に表現に結実できるのか、とも思っている。思って、考えを続けている。

 

・考えを続けながら、しかし今日は起床して午前はメールに返信しオンラインで面談。その後11:00から15:00までWordファイル上で一進一退の攻防。祈るように文字を打っている。15:30に外出して職場に向かうが直後に今日の予定の変更に関わる連絡。17:00に職場に着くがやはり変更。そのまま直帰して18:30に帰宅。夕食の準備をしながら少し作業の確認。明日の自分に引き渡す。