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  映像研究

つぶやきにちかいもの

 
・普段「勝った」とか「負けた」とか、ましてや「勝ち組」とかなんとか、そういう基準で物事を考えないようにしていて、実際に生活している中で、勝つとか、負けるとか、そういうことを本気で考えることなんていうものはないのではないかと思っているけれども、あるいは、そもそも自分は、負けた、とは思わないようなやり方で、色々な事柄をやっていると思ったりするけども、ところが、しかし、「これは負けだ」と。これは、自分が、負けたのだなと。人に、環境に、そして自分に、何かに。負けたのだと言うしかないような状況がある。だからそれは新鮮な感覚でもある。しかし新鮮だからといってそれを心地良く感じることはできないけれども、確かな考えであると思う。確かな考えが、考える材料として、目の前に投げ出されているように思う。たとえばこの後、自分は、何度「負けた」と、ああこれは確実に負けだと、思うことがあるのだろうか。いずれにせよ、それはいつも、何か自分にとって決定的なことであると思う。


・というような意識が集中しないように。言葉が固まらないように。音楽を聴いたりすることを忘れないように。


・とても久しぶりに友達と会って(その久しぶりの基準はあくまでも自分にとってのものだけれども数年前くらいの以前に比べればやはりそれは久しぶりだった)近況を報告するほどのこともなく、何事かを話したりした。話す内容よりも、その話している感じ、人が集まって場を立ち上げている感じ、セッションの感じ、許されている感じ、何も奪い合うことのない感じ、人が生きている感じがして、眩しいような、懐かしいような気持ちになった。何度でも思い出すことは、色々な人がいること。全然違う人がいること。別の体の人がいること。そのことを思う。


・業務で半日とか続けて面接をしていると、それが数日続いたりすると、人と話す形式が緩やかにではあれ固定されてしまうように思うから、それではダメだと話す言葉を揺らせる。緩急をつけたりするとグルーヴのようなものが生じる。しかしそれは設計可能なレベルのグルーヴに過ぎない。あるいはフレームを作ってはそのフレームを壊す。そうしてまた人と話すことを続ける。それは「面白い」ことでもあるのだけれども、あるいは自分にとっても誰かを知ることに/誰かから学ぶことになるのだけれども、一方でそのことが何か恐ろしいことであるような気もしてくる。自分が「話すこと自体」になる。そのことの奇妙さ。奇妙さを突き詰めると、ある危険の兆候を示すかもしれない。今は突き詰めない。しかしだからこそ、話すことから遠ざかる。遠ざかることを想像する。遠ざかる時間を作る。あるいは話すこととは別の自分の行動を大切にする。どうすればよいのか。思考にとっての眠りのようなこと。本を読めば良いのか。回想すれば良いのか。演技をすれば良いのか。肉体労働をすれば良いのか。単純作業をすれば良いか。風景、のことを考えれば良いのか。山を歩けば良いのかもしれない。


・あるいはそこに別の「見ること・聞くこと」の必然性があるのか。見たもの、聞いたこと、について話さない、ということについて。