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  映像研究

2022年8月のドトールコーヒー

・202208311720。大型書店に併設されたドトールコーヒーで作業する8月の終わり。毎年業務が終わった8月の後半はこの場所で作業していた。図書館でも良いのだけれど。連続する業務でオーバーヒートした脳にしてみれば図書館はあまりにも静寂すぎる。だから適度に視覚的・聴覚的な「ざわつき」「ざわめき」のあるドトールコーヒーは最適だと考えた、というのは口実に過ぎずほんとうはかぼちゃのタルトが食べたかっただけかもしれない(食べた)。そうして今年の8月後半は夢のような旅行によって半ば強制的にルーティン化した脳と身体が緩んだ。かなり不思議なバランスで9月を迎えるように思う。と8月後半を振り返りつつやはりドトールコーヒーにいる今。繰り返すことで確かに時間を感じることもできる。

 

 

・「秋」と思うと今年を閉じることを考え始める。そして「来年の展望」を見ようとする。見ようとすることで少しずつ浮かび上がる景色。実際には例年2月中旬くらいまでは業務のために慌ただしく過ぎて年末も年始もあまり意識されない。それで2月後半から3月上旬にかけて、慌てて取り戻すように「新しい景色」を描くことになる。とりわけ今年は何かにつけて「それは来年(度)」と言い、言い聞かせ、そのために「2023年の展望」は後回しにされたトピックが束になっている。イメージとしては「七福神が勢揃い」という感じ。明日になって「9月」の文字を見たならば、そのような場所へ向けて滑り降りていく流れがはじまる。

 

・昼食を食べて家を出て車に乗るまでのほんの僅かな時間に、写真を撮ることを思い出す。写真を撮ることが生活に不足していると思う。スマートフォンをかざして写し取ることはできるが、それでは得られない感覚を求めている。「カメラ」ならば良いのだろうか。「レンズ」が突き出した機械ならば良いのか。「フィルム」という物質に定着されれば満足できるのか。自問するが明確にはわからない。自分にとって「写真を撮る」ということは、ひとつの行為であるのでなく、生きていることの中でたびたびすることで意味を為す行為なのかもしれない。スマートフォンで写すことを、自分はどこかで「仮初めの」「代替的な」行為だと考えているのかもしれなかった。そう感じ、思いながら、獲得されたまったくなんでもないイメージは、継続する言葉と共に置かれることで、辛うじて自分にとって親しいものになる。

 

・イメージの問題であれ、人間の関係に関わることであれ、「断片的であること」や「存在が希薄であること」あるいは「ヴァーチュアル性」について、それは冷静な事実としてあり、確かにそう言えるのかもしれない。そうした想像される「意見」や「姿勢」を仮想してみて、「ただし、人はそれでは生きられない」、あるいは「もっと充実を感じる生があり得るのではないか」と言ってみる。当たり前のことを言うようになった。より正確には、「かつて『凡庸であり疑わしい』と思っていたこと」を、今は大切なことであり探究すべきことだと考えている。書きながら気がつき、気がついて驚く。

 

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