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  映像研究

わからないままに

・後から書いておく夏の記録。7月21日は誰がどう考えても夏に違いなかった。小中高を卒業してどれほどの年月が流れようとも「7月20日」という文字を見ると、両手に荷物を引きずるように持ち、あじさいを抱え(実際にそのようなことがあったのか不明)、炎天下の昼に放たれ帰宅して素麺など食べた記憶が浮かぶ。だから「7月20日」を過ぎれば迷うことなく夏のはずだった。2022年の現在はまた違った星に生きているのだろうか。「二度目の梅雨明け」などというフレーズが流し素麺のようなタイムラインを流れて消えていく。「梅雨明け」とはそもそも何か。根本的な問いを持っても良い。

 

・「問い」を持つあるいは立てることがこのように推奨された世界に生きている。小賢しい大人(自分)は「問いを持つことすなわち疑問を持つことが大切」などと言うかもしれないけれども、本当にそうなのか。本当にそうなのかと考えるのは、年齢的には大人であることを免れない自分の仕事かもしれない。定型文となり空虚になった「問いを立てる」よりも大切なこととは何だろうか。今そんなことばかり考えてる。

 

・「第七波」という波の中にいます、あるいはこれから波がやってきます、とも喧伝され、確かにそうなのだと思う。これだけの人数が感染するならばそろそろ自分の番かもしれないと思う。身近な人によれば「軽症」とされてもやはり高熱で苦しいと聞くから、しばらくは日記らしい日記は書けないか、それもまた病状の記録として残しておくか、ということになるのだろうか。業務に穴を開けたくないとだけ思う。これは雇用契約している労働だから代わりがいることが普通であって・・・とは思うが目下自分で書いた台本を自分が演じているような状態だから、それが不可能になった時の代替が考えられない。どうしたものか。

 

・暑い日だった。午前にオンラインで面談。昼にレトルトカレー。そして午後は大型書店内のドトールコーヒーで作業。端のふかっとした席で数時間論文の作業を進める。集中が続かずリュックのポケットを探ったならばイアホンが出てきて、お、と思い音楽を聴きながら作業をすることを思い出す。外で作業をするときにはリズムがある音楽を聴くと適度に集中できる。いつかの夏にずっと聴いていたDorian『Midori』を流すと中央図書館の感じを思い出し、そうか、明日の午前はちょうど図書館で作業するのが良いかもしれないと思う。

 

・ホームセンターで鉢を買う。春に購入したフィロデンドロン。もうひとまわり大きな鉢に移したい。鉢はきっとプラスチックでも良いのだろうが、贅沢だと思いつつ陶器が良い。

 

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