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  映像研究

夏の終わりのドトールコーヒー

・201908261439。ニュータウンの大型書店に併設されたドトールコーヒーにて。8月の第4月曜日は中央図書館が休館だった。もう何年もそうしているから、日記を読んでみると去年も一昨年も同じ日に同じように同じドトールコーヒーでPCのキーボードを叩いたり読めない本を読んだり業務のリハビリ的にぼうっとしたりしていることがわかる。周囲を見ると勉強している人が多いからもしかすると少なからず図書館難民がいるのかもしれない。今。

 

・しかし今年は去年や一昨年よりも早く業務の後の疲労から回復できるかもしれない。去年も一昨年も秋に締切の論文に追われていたが今年は引き続き業務と継続的な語学でペースが作られる予定。いつでもここがデッドエンドだと思いながらしかし続きはあった。

 

・気を緩める時は洋服のことばかりを考えて洋服のことばかりを話したい。数日前には秋を先取りするために黒いナイロンのマントのようなジャケットを購入してみた。この年齢で、この身体で、この精神で在ることは一度限りと思った数年前から購入するかどうか迷った洋服はなるべく手に入れる方針に切り替えた。当面(あと30年くらい)図書が最優先になるかもしれないけれども、洋服のことも忘れたくない。あと全然別の位相に映像機材(主にカメラ)がある。現実と質感と色と形と光と影に興味がある。ドトールコーヒーのブラインドが一斉に引き上げられて、外はスコールのような雨。

 

・全部手を抜かずにやりたいが「写真を撮ること」は後に回している。現実が儚くせめて撮ることで刻み込みたいがカメラを持っていない/取り出せないことに心を痛める。悔しい思いをし続けている。もっと写真を撮りたいといつでも思っている。そしていつかこの撮りたい残したい気持ちさえも消滅してしまうのだろうかと普段考えないことを考えたのは最近病院に行く機会があるからだろうか。記念写真や集合写真には人間が写されている。それらは写真というイメージの究極の状態であると思う。写真のことを考える時には、人が死ぬこと消えることを考えている。必要以上に深刻に考えたいわけではないのだけれども、自分が惹きつけられるのは(というのは輝きのようなことを感じるのは)やはり死ぬことについての何らかの予感を感じる写真なのだと思う。中断。