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  映像研究

この日

・202210161804。日曜日は夕方に業務が終わる。少しだけ早く帰宅する京王線で書いてみる。このようにして、業務にまつわる諸々と、自分の作業にまつわる諸々に、そして押し寄せる締切的な期限に、ひたすらに応答していたら10月の半分が消えた。外部の事象への応答が続く生活は消耗する。自分の内から何かを発見する、あるいは、自分の外にあるものが自分の内に流れ込んでくるような時間を必要としている。

 

・そうした時間を保つために、そしてそれを口実にして、昨日は代官山のLOKOギャラリーへ高橋恭司の展示を見に行く。GHOSTと題された写真のシリーズを見る。もしも幽霊なるものがありえるならばすべての映像はその内に含まれるのではないかとも思う。一方で、フィルムに記録されて印画紙に定着された写真により強くGHOSTの感じを覚えるのはなぜなのか。それはあくまでも自分の生きた時のメディア環境に拠る感覚なのだろうか。そう考えたりもする。

 

・エディションではなく「unique」と記された写真がある。その写真を、世界に唯一存在しているかもしれない写真として見る。あるいはこの写真が失われたならばもう二度と現れないイメージであると考える。素朴に考えて、絵画や立体作品ならばそれは自明のことだから、このように考えて、何か不思議な感じを持つことはない。写真であるにも関わらず唯一の事物である、という条件が認識に軋みを生む。しかしそれはダゲレオタイプの唯一性とも異なり、本来複製可能なはずイメージが、しかしもう複製できない、と思うことによって起こる感覚なのだった。

 

・何かに似ている感覚のようにも思う。しかしいまは思い出せない。だから別のことを考える。たとえば死んでしまった人を写した写真であればどうか。死んでしまった人が映っている最後の一枚の写真であったならばどうか。そうした時にその写真を目にする(手に持つ)人の情念のようなものがあるとして、展示されていたすべての写真には、そうした情念がうっすらとたちこめていたのかもしれない。あるいはすべての写真なるものがそのような事物となる可能性を秘めているかもしれない、ということについて考える。

 

・そうしたことをぼんやりと思いながら代官山を歩く。業務までの猶予があったから30分だけ散策してそのまま渋谷まで移動する。代官山で電車を降りたのがいつ以来か思い出せないほどで、すっかり様子が一変していることを予想していたが、確かに変わっている場所は変わっていたが、変わっていない場所は変わっていなかった。たとえばOKURAを左手に駅の方に向くとAPCが見える。店の佇まいと距離は前世紀から変わっていないから不思議な気持ちになる。それは少しだけ写真を見ることに似ているかもしれない。街を歩くことが、古く分厚いアルバムを捲る経験のように感じられることがあると知った。

 

・別のこと。その翌日の今日のこの日のこと。業務の空間にかつての同級生が保護者として現れるという、いつか想像した未来がふいに訪れた。過去とは何か。現在とは。そう考えたりもする。きっとこのような、些細でもある出来事に磨かれながら、この世界でもっとも古い物に近づいていく。