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  映像研究

天気と声

・日曜日の業務は屋外での撮影を含む内容だったから前日(土曜日)に雨の予報が出た時点で極端に荒んだ気持ちでいた。雨が降ることは構わない。構わないというか仕方がない。それもこの世界のありようの一つだし雨の日の雨の様子が記録された映像には、晴れの日にそうしたのと同じように=異なる時間と場所が現れる。そのことには晴れの日と同じように=異なる意味がある(意味が生まれる可能性がある)。それは理解している。それを理解した上で強く不安に思うのは、主に、雨の中で一生懸命に撮影した結果風邪を引いた、という結果が生じた場合の責任の問題が過ぎることに依る。風邪を引く(引かせる?)ことで現在の全てが失われるのではないか。2021年において、そうした想像をはたらかせつつ業務の何事かを考えることは消耗する。

 

・そうして心のイメージの中心に一体のてるてる坊主を吊るし、無事に日曜日が終わった。晴れもしなかったが荒れもしなかった。心のてるてる坊主に感謝。ファシリテーション的に改善の余地はあろうが、基本的に「見ること(映像を・人を・制作を・関係を)」が主な仕事だったから、それは達成できたと思うので、安心して力が抜ける。好きなビールを買って帰り、論文の作業を少しして、夕食。Travelling Without Movingを聴きながら、家族がつくってくれていた、唐揚げ、ピーマンの肉詰めなどをいただき、少し反省会。

 

・今日あらためて、自分がその場にいる全員に向けて声を発するときに、以前よりも気持ちボリュームを下げて、できる限り大袈裟な抑揚を付けないように、話していることに気づく。気づくというか、自分にとって「以前よりもボリュームを下げて、抑揚を付けないように話すこと」が現在進行形で流行っている。それはたとえば数日前に気になったと書いた落合陽一のような人の振る舞いに影響を受けたこととも関係があるだろうか。勢いをつけて言葉を発して、その関係に熱を帯びさせようとする自分の振る舞いが、この「場」を「サーヴィス」あるいは「コンテンツ」とすることへ向かってはいないか。そういう疑問がずっとあった。「もう少し普通でも良いのではないか」「もう少し普通な方が良いのではないか」という仮説が、「しかし『普通』とは何か」という問いとともに浮かぶ。「『普通』に話す」という課題。

 

・それは自分が他者の話を聴く中で何かを感じていることにも依る。「迷いのない話し方(話し・型)」に惹かれる気持ちは未だあるが、しかし現在は、何かに気づく揺らぎを保ちながら、他者からの応答に開かれていながら、淡々と歩むように話す態度でありたいと願うようになった。型を捨てることは不可能であっても(型を捨てたと思ってもまた別の型は生成する)、硬直した型を反復することは望まない。そうした考えが自分の声や言葉の使い方を変化させる。時々点検しながら続けてみる。