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  映像研究

新しい月

・202207011147。新しい月に新しい文章を書くことからはじめてみる。ここは猿田彦珈琲。少し遅めの朝食はピザトーストとコーヒー。今週は京都のエースホテルのコーヒーからはじまった。BGMというにはボリュームありリズムありの音楽が流れている空間で作業することの幸福。身を滅ぼさない限りにおいて幸福あるいは豊かさを感じ続けることの重要性について再確認することが多い。そしてその豊かさは本質的な新しさと繋がる。次々に消費することではなく、ふと思い出せば現在のこの時間が「新しい」ということ。つねに最前線にいることの不思議。その不思議を自由と考えることができるならば、少しは身体を緩めることができるだろうか。

 

・気温が高まれば身体の各部位がすべて少しだけ緩み結果的に動きも思考もなめらかになる。寒い季節にはそのように暖かい季節に理想や幻想を思うけれども、現実の暑さはまた別の状況を引き起こす。5年前に友達に分けて貰った豆乳ヨーグルトは現在も継続している。季節ごとに豆乳がヨーグルト化する環境は異なるから、気温や湿度を感じながら冷蔵庫の上に一晩置いてみたりする。しかしこの暑さの中で、豆乳は数時間でヨーグルト化を通り過ぎ爆発したような状態になっている。いま人びとの脳はあのような状態なのではないか。身体は多少緩んでいるとしても脳が爆発(仮)しているから統制ができない。

 

・ひとりの身体で起こっている状況は、それを体に見立てた集団においても、同様に起こっている、とはあまりにもあてずっぽうだがそのように考えてみて、いろいろな場所のいろいろな集団が、統御する部位である人が焼け焦げるようにして、ばらばらな状態にあるかもしれない。且つ、膨大で高速の情報(文字と映像)はこの世界の気温を上昇させるように感じる(これは『天気読み』あるいは『昨日と今日』の主題か)。産業化/情報化された社会において、文化たる作品は人びとに「浸み入るようにして」広がり、そして時間をかけて土壌に影響を与えるのだが、これだけ高温が続き乾いた状態にあると、浸透することのないままに蒸発していく。不毛を指して「焼け野原」と物騒に形容するのは、その「焼けた」状態が想像されるためではないか。あるいは「炎上」も。各種のタイムラインを見ていると、どのような潤いも一瞬で蒸発させる鉄板がベルトコンベアのように動き続けている様を思う。

 

・そのような情報空間に現実が追いついたのがこの猛暑か。などと書いてみて、脳と、思考と、言葉が、沸騰してしまわないように。水を飲んで正午。中断して業務へ。