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  映像研究

偶然

・後から書いておく週末の記録。

 

・土曜日は今年最初の筍掘り。出荷までするが直売所には既に筍が溢れていた。最盛期。価格の暴落。需要と供給についての学びを得る。

 

・その筍掘りの筋肉痛を記憶として留めながら日曜日は業務。気がつくと全然違う姿をしているものばかりだ。筍も、山椒も、フィロデンドロンも、じっと凝視しても静止しているがあっという間に姿を変える。勢いが形を膨らませる。そのような目で大学生やこれから大学生になりそうな人たちを見ていた。自分もまだそのような爆発のような変化を秘めているだろうかと自問しながら。変化の変節の部分、節が角度を変える箇所、電車のレールの分かれ目のようなもの、は偶然にも拠る。自分が偶然と出会うことを考えながら、自分が他者にとっての偶然を体現する者でもあり得ることを思う。

 

・別の話。家で夕食時にNHKオンデマンドを検索したならば、更新されると必ず見る『Trails to Oishii Tokyo』が筍を特集していて、やはり人のあらゆる行動は何らかのセンシングによってデータに変換されてコンテンツの制作に反映されているのではないかと思う。それほどにタイムリーな番組。もちろん見る。「旬」という言葉(漢字)が「筍」の成長に由来するという興味深いエピソード。また「筍農家」という言葉があり、いったいその人たちは一年間何をしているのだろうかと思ったが、山の土を管理していた。一年のある時期にしか収穫できない作物のために土と、木と、山の様子を見ている。そのことへの少しの驚き。しかし実際にはそれは他のさまざまな作物もまた同じだった。

 

・自分の周囲にまだ見ぬ力が満ち満ちている、あるいはまさに姿を現しつつある、それが現在だった。