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  映像研究

・一日家で文章を書く作業の火曜日。唸りながら書いては消し書いては消しを繰り返す。ディテールは変化し続け少しずつ膨らんでいくが先には進まない。何度も集中が切れる。そのような日の記録。

 

・作業の合間にニュースサイト経由でリアルタイムの映像を見る。言及することも憚られるようなところもあるが、ともあれ「多くの人が注目している」ということになっているから、その意味で気を惹かれ記者会見を見た。何もかもが当然のこととしてもっとスムーズに進行すれば良かったのだと思うが、この状況の前提には映像の問題もあるだろうか。この状況を映像の問題およびSNSの問題つまり言葉とメディアの問題として考察することもできるだろうか。考えている人もいるのだろう。根本的な問題の一つは、なぜ私たちは画面に映る、顔と名前が一致する人に対して、その人を「私はこの人を知っている」と簡単に思うことができるのだろうか、という問題でもある。端的に有名性ということだろうか。

 

・顔と名前が多くの人に知られているということは、おそらく本来的には異常なことである。その事に耐えられない人もいるのだろうし、生まれながらにしてその事を受け入れなければいけない状況が人を変化させることもあるのだろう。しかし一体「自分のことを知らない人がいない」という環境がどのような精神を形成するのか。わからない。想像してみることはできる。具体的なシチュエーションはコントのように浮かぶ。けれどもその想像は一定以上には進まない。現実に生きられる時間には及ばない。

 

・わからない事について意見を発すことに対して、ある程度の躊躇があれば良いのだろうか。わからない事にはただ「わからない」と言うべき、あるいは考える必要がないと思う一方で、しかしたとえば国政に対する姿勢は異なる。わからない事があれども、わからないなりに選択しなければならない。それは義務でもあるのだから。しかし画面に映る者を皆一様に「セレブリティ」と見做してその人物に対する意見を持ちなおかつ発言することは全く義務ではない。特殊な、しかし完全に異常とも言い切れないような欲望によるのだろうか。その欲望は普遍かあるいは時代に即したものか。

 

・その映像を見た後、午後の作業の傍らで「心を守る」という言葉について考えていた。一人の人はいつでも一人の人である、という言葉にすれば当たり前すぎることについて考えていた。そのことを、一人の人はいつでも一つの心を持っている、あるいは一つの心とともにある、と言うこともできるのだろうか。私は私の心とともにある、とどの程度まで確かに言えるのだろうか、とも考えていた。考えていた、というよりは、何人かの具体的な「知っている人」のことを思い出し、思い浮かべながら、その人たちにとって「心を守る」とはどのようなことなのか想像してみた。それはまた別の問題であるとは思いながら、色々な意味で「心を守る」態勢を保つことが必要な状況は存在する。そのことは辛うじて想像することができた。

 

・自分は今そのような態勢からある程度まで、あるいは相当に、自由であるだろうか。夕食は冷蔵庫にあった鶏ささみを調理する。週末の旅行のことを考えている。