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  映像研究

2月の後半

・201902281258。冬の終わりの冷たい雨。なかなか作業に取りかかれずに今。日記を書くことと洗濯機を動かすことから一日を始める。業務にまつわる事柄、集団にまつわる事柄、金銭にまつわる事柄はどれも疲弊する。疲弊している時間的な余裕はないのだし、目下やらねばならぬ事柄を粛々と進めるべきなのだが、人間である以上、それほどスムーズな切り替えができるわけではない。それを前提として考える。それを前提として考えることを確認する。確認することで許す。

 

・22日には元同僚?後輩?がセッティングしてくれて業務に関わる意見交換のための飲食。普段自分が無意識に行なっているあれこれを考え直す良い機会になった。ざっくりと同じくらいの年齢の人たちはそれぞれの持ち場で一定の年齢の人たちを相手にして同じような困難?問い?と向き合っている。端的には「高校生や大学生と呼ばれる人たちとどのようなコミュニケーションが可能か」と言えるけれども、そのことを通じて「では自分はこれまで何を?どのように?学んだ?と考えられるのか」と思わずにはいられない。それが授業という場であればそれを構成する様々な要素が考えられるのだし、そのひとつずつを点検しようと思うと途方に暮れてしまう。ただそうした業務の良いところは先人や似た環境の人もまた多くいることなのだから、相談は重要だと思う。しかし後半は「おしゃれ」やそれに似た意味の言葉でしか話していなかった。それは自分が何かを学ぶモチーベーションを考える上で「わかりづらいことを指し示すための言葉」としてわかりやすいからだ。何かを知り何かを経験して別の自分になりたいと考えていること自体をほとんど無条件で肯定し、またそうした志向(欲望と言うこともしっくりこないような)を触発するためにどのようなはたらきかけが可能なのか。自分もまた新しい年度を迎えるにあたってそのことを考えている。

 

・23日は実家で命日の集まり。盆よりも盆らしく正月よりも正月らしい。飲食しすぎて風邪。

 

・24日はドイツ文化会館でシアターコモンズのイベント。田中功起の映画『可傷的な歴史(ロードムービー)』の鑑賞。一昨年(2017年)だったと思っていた水戸芸術館の展示は2016年だった。つまりそれは3年近く前のことだった事実に少し驚く。3年で自分の考えは自分が思い描いていたように更新されているだろうかとも思う。それは自分が「記録」と「イベント」について、あるいは「記録/イベントを含みこむ作品」について考えたいと思っている(いた)からだ。どうだろう。自分が水戸の展示で最も印象的だったのは、参加者のハンさんの「これに参加することにどういう意味があるのか」という問いであり、あるいは金銭の授受の有無のような部分であり、その展覧会がワークショップ(と記録)という形式が必然的に生じさせる、「教育」「労働」「自己啓発」「信仰」「共同体」やそれらの接点のような曖昧な事柄について考える機会になったことが重要だった。その意味で非常に意義の多い展覧会だった。それを顧みつつ、上映後の「アッセンブリー」という討議にも参加しながら、自分の関心のうちのある部分の考えを進めるが、この映画を鑑賞することからは、水戸芸術館の時のようなことはあまり考えなかった。むしろ端的に「社会的な事象について言及するどういう回路が作れるか」ということの方法の一つ(もちろん/あるいはそれは作者にとって「唯一の」でもある)を示すという点にウェイトが置かれているように思える。アッセンブリーのコメントや少し見たSNSで提出されていた「映像の問題」「被写体と作者の(経験を作品が搾取する?)問題」は、本当に重要なのだろうか、とも考える。あるいは別の印象では、この映画(映像作品)は「一つの問題を扱っている作品」だという印象を持った。曖昧な複数の事柄ではなく。それはどういうことか、とも考える。

 

・展示空間にビデオが点在する状況(マルチ)と、劇場での上映(シングル)について考えることもある。それは時間軸に沿って映像を受容することの力について再考することで、これは映像の問題とも言えるが、映像の「力」と言うからには、それは単純に「メディアの問題」と言うことでもない。「映像はどのように人に学ばせるのか」という問題であるかもしれないが保留。あるいは「アッセンブリーを含む映像作品」とは何か。ドキュメンタリーの上映は「報告」「勉強」「研究」の要素を含む(べき)ものなのかもしれず、劇場的なフィルム/観客は上映において絶対的なものでもない。その上で水戸芸術館の展示においてワークショップの映像を見た後に開けた空間で参加者のインタビューが上映される空間に辿り着いた、あの時の感じを自分はアッセンブリーの状況で思い出した。ああ、遂に自分も、「ワークショップに参加する人」を、展示空間/劇場で眺めているだけでは許されないのだな、と感じた。帰っても良いし一人で感想を書いても良いと提示されることも含めてワークショップの場は画面のこちら側に出現する。お金を払って鑑賞しているけれども、お金を払って鑑賞するだけでは許されないのだな、と感じた。そのことは映像が映像の時間軸の中で語ることと共に(結びついた形で)、決定的に重要なのだと感じた。「見ること」と「参加すること」は違う。あるいは「聴くこと」と「話すこと」もやはり違う。もちろん時間が終われば(作者が終わりを宣言すれば)皆語ることをやめて、それぞれの(コミュニケーション・メディアの)タイムラインに戻っていくのだけれども、あの場は「一度離脱して現実の場所に存在しなければならない」状況だった。そのことを継続して考えてみようと思う。

 

・25日は労働。26日はミーティング。27日は労働。