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  映像研究

19950320

 
・記しておきたいと思ったことは、1995年の3月20日という時間に自分は生きていて、その日のことを多少なりとも覚えているということだった。中学の卒業式で、友人と3人で食事をした。その後ずっと関係が続く2人と。テロのようなことが起こったらしいが、その頃に「テロ」という言葉は今のように一般的ではなかったように思う、何も知らず、知ることも、想像できることも限られていた。その1995年という年は、少しずつそのニュースとその後起こった出来事を消費していったように記憶している。


・という記憶をなぜか思い出しながら、インターネット上にメモを書こうとしたのは2007年の3月20日のことで、「1995年の3月20日から12年」と言ってみたものの、まるで根拠も気持ちもなかった。ただあまりにも平坦に時間が流れるように思い、日付のどこかに楔を打ちたかったのだと思われる。楔は確かに打たれた。自分は今でも「3月20日」という日付を特別な日付だと考えているし、1995年を思い返す上で、自分の固有のチャンネルを持っているように思う。そういう考えが辛うじて身を支えるような状況もある。


・それで、「死刑が執行されました」というニュース。それがニュースであることに違和感を感じ、かつての様々な出来事もまた、ショーアップされた何かであることを、文字通り「どうしようもない」ことであると思いながらも、そのことの違和感を、新たに持つこと。目に見える映像や写真のこと。映像や写真を通じて「何かを見ている」こと「何かを知っている」こと。そして目に見えない法のこと。人の目に見える部分と、目に見えない感じられることについて。