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  映像研究

ギフト(土曜日)

・台風が近づく土曜日の記録。誕生日だった。しばらく前から誕生日というものを面白いと思いどんな一日か記録している。数年は一人で自分の作業をするというのが決まり事のようになっている。日記を読み返してみれば、去年は家で本を読み、一昨年以前は中央図書館で勉強をしていた。今日は一週間ぶりに電車に乗って外出する。明大前、渋谷、で乗り換えて、恵比寿へ。写真美術館の図書館に来て、約100年前の雑誌の記事をコピーする一日。

 

・雑誌は大抵一年ごとあるいは半年ごとに保存するために分厚い一冊に綴じられている。所蔵するために複写された雑誌と、元の紙のまま保存されている雑誌があり、記事の文章を読むだけならばそのどちらでも良いのだけれども(いずれにせよコピーを取るのだから)、せっかくならば元の紙を触ることが楽しい。あるいは写真図版を見るならば、やはり複写では細部が見えない。その雑誌のページも写真自体ではないのだけれども、しかしその写真の価値を伝えるイメージではある。記事を読みコピーする箇所をチェックするだけで慌ただしいが、お願いしたコピーを待つ間に写真自体を見る。

 

・作業中にふと検索したことから、自分の論文の中に、あってはならない誤記を確認して動揺する。これは。。どうしてこの誤記が編集の過程をすり抜けて印刷されてしまったのか、、と即座に考えてしまったが、それはスピーチの誤りを準備した事務の方に責任転嫁する非道い総理大臣のような事だと反省。当然文責は自分にある。不勉強を恥じつつ次の仕事で更新するしかない。と同時に自分はこのような失敗(失態)があった場合に、落ち込みながらもどこかで、ああ自分はこのような事によってまだこんなにも心が動くのだなと考えたりもする。

 

・気を取り直して、そういえば福原信三の写真集の実物を見たことがなかったということを思い出し、『西湖風景』『松江風景』『布哇風景』を出していただき見る。全ページをコピーしたいとも思うが、ひとまず写真を見る。あらためて面白いと思う。「うまい」とか「理に適っている」という感想ではなく、自分が惹かれる写真は、まず一義に「なぜ、これを、このように、撮ったのか」と考えさせる。あるいは考えることになる。そしてカメラを手にした者が確かにその時存在したことを思う。その者が見た物を「掴まえにいこうとする」ように感じる。「観察」ではなく。写真集はいずれも大型の冊子を想像していたが、案外そうでもなく手に収まる大きさ。それぞれ二、三枚ずつカラーで複写する。これは純粋に自分のためのギフト。

 

・渋谷に移動する。人が多い。フライングブックスで何かあれば、と思ってまず一階の古書サンエーの方を見ると、ちょうどさっき写真美術館で分厚く複写に苦戦して(司書の方が)、部分的に抜書きが必要だった、当面の論文作業に一番必要な記事が掲載されている95年前の『アサヒカメラ』が売られていた。1,500円。束になった一番上に並べられていた。まるでこちらを見る様に。引き寄せ的なスピリチュアル言説には気をつけつつもこういう偶然を信じてもいる。該当する記事が掲載されていることを確認して購入。図書館で複写&抜き書きしたのだけれども、せっかくなので持っておきたいと思った。これはギフト。

 

・新宿を経由して職場へ。ショッピングなどに惹かれるが色々な意味で自制。早く用事を済ませて帰宅すべきと思う。職場で来週の業務の準備をジャスト一時間。引き継ぎのお願いと業務連絡など。帰路。職場の最寄駅の写真屋さんから連絡があったことを思い出して引き取りに行く。それはVHSテープからDVDデータへのコピーで、映っているのは小学校の頃の学芸会だった。母親が小学校の同級生の親仲間のどなたからか借りたものだが見ることができないと言っていたのでダビングサービスにお願いしてみた。昭和のホームビデオ。『エルマーの冒険』で率先してエルマーに名乗りを上げる様な自分だった。何の因果か約30年前の自分を映像で見る今日。これもギフト。

 

・稲田堤で途中下車していつもの珈琲豆。食堂のテイクアウトでパテドカンパーニュ。ギフト。

 

・帰宅して夕食。いわゆる繁華街に行ったのが三週間ぶりくらいだったから、人の流れに疲労したのだろうか。前菜的なものを食しながら意識を失いそうになる。家族からプレゼントに、走ったり歩いたりする時に被りたいメッシュのキャップを戴き感謝する。

 

・ニュースも、ラジオも、NHKオンデマンドも、あらゆる情報が、オリンピック、とコロナ、の祭りの気分と沈痛な現状報告を交互に話し、合間には大抵残酷な出来事を伝える。その間に動物の映像はいつも緩衝材の様にインサートされるがそれもどうなのか。友人はオンライン・ミーティングの時に「にーぜろにーぜろ、という声を聴くだけで何か変な感じになる」と言っていたが、確かにそれを無理矢理に時空を歪める呪文の様に感じる瞬間がある。今が2021年であることを考えると漠とした気持ちになる。祭りの気分は少しずつ薄れるのだろうか。いつまで何が続くのか、と思いながら、もうしばらくこの夏を過ごす。

 

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