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  映像研究

夏の反省

・8月最後の日曜日ですとJ-WAVEで野村訓市の声を聞きながら意識を失う夜。こうして夏が終わろうとしている。宿題はないが宿題を設定することすらできなかったという意味で焦りと反省がつのる夏の終わり。普段そもそも反省が足りないし反省を文章にすることを避けているがどうにも反省をせざるを得ないと思うのは季節のせいではない。研究、語学、読書、そして制作、いずれもがほとんど手につかないままで時が過ぎようとしている。さて、どうしたものか。辛うじて残された力を日記をいいかんじに書くことに注いでしまうことも反省。記録はあくまでも記録として書いたほうが面白いはずだから。

 

・春以降なにかを「待って」いるのだろうか。コロナ禍と言われる状況は人に「待て」と命令しているのか。待つことに慣れているし、自然な体勢が待つ姿勢でもあるような自分は、このような状況において、待ち続けてしまう。平時も待つことで辛うじて環境の変化に対応しているような感覚がある。環境の変化に強くないことを自覚している自分にとって、たとえば業務がなんとか形を保てているのは長くその席にいるからだと痛感することも多い。いずれにせよ、そのような自分は環境の変化をいかにして招き入れることができるか、と考える。

 

・と当時に「何事にも揺るがず研究に集中せよ」という内なる命令も聴こえる。このような相反すると思われるような命令に身を割かれる感じが続いている。そしてそれは自分の周囲の人たちもまた大抵がそうなのだということを日々感じている。「何か一つのことに集中して取り組む」こと自体が、ほとんどギフトなのだということに気づいたのは30代半ばだった。そうしてそのような時間と出会うことはどんどん難しくなってくる。そのような時間をいかにして創り出すか、と考える。

 

・総理大臣の辞職のニュースについて誰とも語り合わない。「とりあえず乾杯」も「ここからが大切」も含めて、あらゆる言説(らしい言葉)が虚しい、というこの感覚こそがこの7年の最も大きな負の遺産なのです、という言説をどこかで読み、なるほどそれはそうなのかもしれないと感じる。感じる、しかし。富む者が支配しだから誰もが富を得ようとすること以上に何を発言すべきなのか。学問も研究もすべては力を手にする一つの方法である(でしかない)ように感じられるなかで一体何を、と途方に暮れているというのが正直なところなのだ。この感覚を、意識を、強いられたものとして問題化することができるか。

 

・TINA。「対案はない」について。現在の環境や考えに即して「生き延びるための」というテーマを掲げてみて、それは正しくもあるように思うが、一方でどこかにやましさがあるのは、その環境、主には決定的な支配の構造を温存するような選択のモードが開始されるようにも思うからだ。「生き延びるための」に「楽しく」を足してみて、それが何かに届くという感覚もない。「趣味が欲しい」などと言っている自分は、いま立ててみている問題の図式のどこに位置付けられるのだろうか。

 

・長く観察者であったことによって、安住できる思想はないということだけがようやく理解された。ここが2020年の夏の行き止まりである。同時にそれは別の生き方が開始される地点でもあり得るだろうか。