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  映像研究

雨の

・202106231950。帰宅する京王線を乗り継ぐ笹塚駅のホームで書きはじめても良い。雨の予報だったが思ったよりも降らなかった。午後早い時間に局地的に東京では雨が降ったようだった。水曜日だった。

 

・朝目を覚ますためにコーヒーを淹れているとjwaveで荒井由実『雨のステイション』。6月の雨の曲だった。中高生の頃に荒井由実のオリジナルアルバムを繰り返し聴き、また文庫本で買った『ルージュの伝言』を何度も読んだ。特に荒井由実時代の曲について、そのモチーフとなった具体的な風景のエピソードが語られる部分を興味深く読んだ記憶がある。『雨のステイション』は多摩川を渡る中央線のことが語られていたのではなかったか。「6月は・あおく煙って・何もかも・滲ませている」という部分を反芻する朝。

 

大瀧詠一『雨のウェンズディ』を記憶を頼りに再生すれば、それはまた別の場所の別の雨の風景を呼び覚ます。やはり高校の頃に平日のスケジュールをパスして鎌倉や葉山に散歩に出かけた記憶。それからしばらく経って友人と平日ど真ん中の昼間に暇すぎてカラオケに行き、思いついて歌った記憶。「降る雨は・菫色」。立ち止まればいつでも、今でも、そのような風景を見ることができるはずだが、なぜかそのように立ち止まることがない。

 

奥田民生『海猫』もやはり膨大な暇が許された時代の雨の記憶。曲自体が雨の風景を描き得ることを知った。あるいは見ることが、見ることしかできない状況が、モチーフに成り得ることを知った。車のフロントガラス越しに見る雨。座って、ただ見ることしかできない。それが贅沢なことでもあることを知るのは、あとからか。あるいは、ポップ・ミュージックか、映画やドラマか、何かに描かれて初めて知ることなのかもしれない。

 

・対面授業のために久しぶりにキャンパスへ。記憶を辿る思考がはたらいたのは、池袋を経由したことにもよるかもしれない。