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  映像研究

離れると遅れる

・202106220902。朝書くことから始めてみる。夏の季節労働の気配が近づいているのだろうか。その準備という形で。職場で斡旋されるワクチン接種はそのひとつの具体的な出来事とも考えられる。同僚が冗談として「検品済み、ということでしょうか」と言っていたから、「確かに。」と返す。「ワクチンを接種した者による安心・安全な講座」には需要があると言えるのだろうか。生権力、と呼べるような概念のありようをうっすらと感じている。感じ続けている。自分が所属するということになっている私企業と、国家と、五輪のようなものも擁する世界経済は、いずれも異なる装置として認識することができるが、単純な入子という感じもしない。いずれにせよ、日々の生活のふとした瞬間にそれらが連結して作動していることを感知すると、少し自分が自分の身体の主人であるという意識が揺らぐ。

 

・検索したいくつかのページに書かれている通り、「接種の夜から翌日にかけて筋肉痛のような痛みがあります」。この痛みのことは記録しておいた方が良いと思った。これは「筋肉注射だから痛みが出る」のか。それとも「ワクチンの接種だから痛みが出る」のか、というあたりが気になり調べてみたが今のところわからない。

 

・新年度が動き出して2ヶ月半が経ち、今年が半分終わろうとしている。夏至を経て太陽が少しずつ離れ続けることを想像すると少し悲しい。今年度の新しさは業務を大幅に減らしていること。それに伴って給与も減っているにも関わらずAmazonで買う図書資料の量は減らないから月末の残高を注視する。目下の毎月の生活費は昨年度中に先回りして入れられるだけ入れておいたからたぶん辻褄は合うのだけれども。

 

心理的な変化も感じる。職場の業務の中心に近い所から少し離れてみると、自分がこの数年していたことを客観的に捉えることができる。はたらいたことの意味と反省が何となく輪郭を持つ。それを認識して別のフェーズに移行する。職場の空間を動き回る自分の残像は今の自分の動きよりもきびきびとしているのではないか、と考える。過去の「その身体」とともにあった自分はもう存在しない。そうしてひとつひとつの動作も、言葉を話す速度も遅くなり、5秒で3往復くらいしていた会話に隙間が生まれることが増える。あるいは今年度に限らなければ、隙間を埋めることを諦めることができたのがこの数年の収穫かもしれない。隙間で考えている。あるいは考えているふりをしながら観察している。時々ただ隙間が過ぎるのを待っている。時間が一瞬で消える。

 

・それを「緩やかな老化」と呼ぶこともできるのだろうか。あるいはもう少しニュートラルに「経年」。いずれにせよ、それを「衰え」ではなく「変化」あるいは「進化」と捉えるような意識の枠組みが求められる。

 

・昨日ワクチン接種の帰りに「せっかく新宿駅周辺に来たのだから」と服を見る。「あたりさわりのない白いTシャツ」を探していたのだが、予想に関して、どれもが、当たるし触る。しかしこれはあらゆる店に大量に積み上げられたあるいはパッキングされた「白いTシャツ」に難があるのではなくて、そもそも自分の存在が「白いTシャツ」という特殊なコスチュームが馴染む身体から離れつつあるということを意味してはいないか。感染防止対策が徹底された試着室で一人、そのようなことを考える。

 

・今日は午前中は家で業務に関する細々としたことをして、昼に買い物へ行き、夕食のポトフを仕込みながら午後は自分の作業をして、夕方には友人とオンライン勉強会の予定。